ラウル (ロレーヌ公)
ラウル Raoul | |
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ロレーヌ公 | |
ケーニヒスフェルデン修道院教会にあるラウルのステンドグラス | |
在位 | 1328年 - 1346年 |
出生 |
1320年 |
死去 |
1346年8月26日 フランス王国、クレシー |
配偶者 | エレオノール・ド・バル |
マリー・ド・シャティヨン | |
子女 | ジャン1世 |
家名 | シャトノワ家 |
父親 | ロレーヌ公フェリー4世 |
母親 | エリーザベト・フォン・エスターライヒ |
ラウル・ド・ロレーヌ(Raoul de Lorraine, 1320年 - 1346年8月26日)は、ロレーヌ公(在位:1328年 - 1346年)。ロレーヌ公フェリー4世とエリーザベト・フォン・エスターライヒの息子。
生涯
[編集]父フェリー4世が亡くなったとき、ラウルはまだ9歳であった。父の生前に作成された遺言により、母エリーザベトが13341年まで公領の摂政の地位を保証された[1]。
1337年、バル伯アンリ4世は上級領主としてラウルに敬意を払うことを拒否していた。ラウルはバル伯の領地であるポンタ=ムッソンの周囲を荒らし、その報復としてアンリ4世は公領の西部を荒廃させた。これに対し、ラウルはバロワを攻撃した。最終的にフランス王フィリップ6世の介入により戦争は終結した。
ラウルの二度目の結婚により、フランス王国との関係が強化された。ラウルはトゥルネーの包囲を解除し、イングランド王エドワード3世と対峙するフランス王を支援するために軍隊を派遣した。
フランスとイングランドの休戦を利用して、ラウルはカスティーリャ王アルフォンソ11世とともにグラナダ王国と戦った。1340年11月3日、ラウルはジブラルタルの戦いで目覚ましい働きをした。
フランスに戻ったラウルは、ブルターニュ継承戦争において義兄シャルル・ド・ブロワを支援した。その後、1342年にラウルとメス司教アデマール・ド・モンテイユとの間で領土争いが勃発した。この争いは、ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクの仲介により、2段階で解決された。1343年2月1日にバル伯とロレーヌ公との間で、1344年4月12日にロレーヌ公とメス司教の間でそれぞれ合意がなされた。
その後、ラウルはフランス王の側に戻り、1346年8月26日のクレシーの戦いで戦死した。オーギュスタン・カルメによると、ラウルの死によりロレーヌは「当時最も勇敢で賢明な君主の一人」を失ったという[2]。
ラウルの治世下の1339年にサン=ジョルジュ・ド・ナンシー聖堂参事会教会が建設され、遊園地が1340年(または1341年)につくられた[3]。
結婚と子女
[編集]ラウルは1329年にポンタ=ムッソンにおいて、バル伯エドゥアール1世とマリー・ド・ブルゴーニュの娘エレオノール・ド・バル(1332年没)と最初に結婚した。
エレオノールの死後、1334年にブロワ伯ギー1世・ド・シャティヨンとフィリップ6世の妹マルグリット・ド・ヴァロワの娘マリー・ド・シャティヨン(1323年 - 1380年)と再婚した。この結婚で以下の子女が生まれた。
- 双子の娘(1343年) - 早世
- ジャン1世(1346年 - 1390年) - ロレーヌ公
マリー・ド・シャティヨンは持参金としてピカルディのボーヴとギーズをもたらし、それ以来ギーズ伯領はロレーヌと再統合された[4]。
脚注
[編集]- ^ Bogdan 2013, p. 56.
- ^ Dom Calmet 1973, pp. 348–349.
- ^ Lepage 1865, pp. 181–182.
- ^ Dom Calmet 1973, p. 334.
参考文献
[編集]- Bogdan, Henri (2013). La Lorraine des ducs. Perrin. ISBN 978-2-262-04275-2
- Dom Calmet (1973). Histoire de la Lorraine. tome III. réédition. Paris
- Lepage, Henri (1865). Les archives de Nancy : ou Documents inédits relatifs à l'histoire de cette ville. vol. 1. Nancy: Lucien Wiener
- Bogdan, Henry (2005). La Lorraine des ducs, sept siècles d'histoire. Perrin. ISBN 2-262-02113-9
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