ラウル1世 (ソワソン伯)
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ラウル1世 Raoul Ier | |
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ソワソン伯 | |
在位 | 1180年 - 1235年 |
死去 |
1235年1月4日 |
配偶者 | アデル・ド・ドルー |
ヨランド・ド・ジョアンヴィル | |
アダ・ダヴェーヌ | |
子女 |
ジェルトリュード アリエノール ジャン2世 ラウル イザベル |
家名 | ネール家 |
父親 | ラウル2世・ド・ネール |
母親 | ジェルトリュード・ド・モンテギュ |
ラウル1世(Raoul Ier, ? - 1235年1月4日)またはラウル3世・ド・ネール(Raoul III de Nesle)は、ソワソン伯(在位:1180年 - 1235年)[1]。ラウル2世・ド・ネールとジェルトリュード・ド・モンテギュの三男。
生涯
[編集]1178年、ラウルと兄のジャンは、当時ソワソン伯であった長兄コノンの特許状に署名し、ノートルダム・ドゥルスカン修道院に領地を寄進した。 アルベリック・ド・トロワ=フォンテーヌは年代記において、存命のソワソン伯ラウルについて触れているが、後にラルフは1235年に死去したと記している。1184年にラルフはノワイヨン城主となった。リゴールによれば、1188年1月13日にトリとジゾーの間で行われた式典に参加し、イングランド王ヘンリー2世、フランス王フィリップ2世とともに第3回十字軍に参加した。
ラウルはドルー伯ロベール1世の娘アデル・ド・ドルー(1145/6年生)の4番目の夫となった。アデルはノートルダム・ドゥルスカン修道院とトランブレ=アン=フランスに対する寄付をラウルとともに確認し、1205年1月から1210年3月の間に亡くなった。また、ラウルはジョフロワ4世・ド・ジョアンヴィルの娘ヨランドと短期間結婚し、その後グランプレ伯アンリの未亡人アダ・ダヴェーヌを3番目の妻として迎えた。
1235年に死去し、息子ジャン2世が伯位を継承した。
子女
[編集]最初の妻アデル・ド・ドルーから以下の子女が生まれた。
- ジェルトリュード(1184年 - 1220年) - ボーモン=シュル=オワーズ伯ジャン(1222年没)と結婚、マチュー2世・ド・モンモランシー(1230年没)と結婚[2]
- アリエノール(1190年 - 1234年) - ボーモン=シュル=オワーズ伯マチュー3世(1208年没)と結婚[2]、エティエンヌ2世・ド・サンセール(サンセール伯エティエンヌ1世の息子)と結婚
3番目の妻アダ・ダヴェーヌから以下の子女が生まれた。
脚注
[編集]- ^ ラウルについては同時代の資料にcomes Radulfus Suessionensisとして言及されている。
- ^ a b Newman 1971, p. 204.
- ^ Griffiths 1993, p. 70.
参考文献
[編集]- Griffiths, Quentin (1993). “The Nesles of Picardy in the Service of the Last Capetians”. Francia 20 No. 1: 69-78.
- Newman, William Mendel (1971) (French). Les seigneurs de Nesle en Picardie (XIIe-XIIIe siècle): Recueil des Chartes. Edition A. & J. Picard
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