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ユーグ8世・ド・リュジニャン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユーグ8世・ド・リュジニャン
Hugues VIII de Lusignan
リュジニャン領主
ヌールッディーンを追うユーグ・ド・リュジニャンとジョフロワ・マルテル
在位 1151年 - 1171年以降

出生 1100年ごろ
ポワトゥー
死去 1171年以降
聖地
配偶者 ブルゴーニュ・ド・ランソン
子女 一覧参照
家名 リュジニャン家
父親 ユーグ7世・ド・リュジニャン
母親 サラシーヌ・ド・ルゼ
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ユーグ8世・ド・リュジニャン(Hugues VIII de Lusignan, 1100年ごろ - 1171年以降)は、リュジニャン領主、クエ領主およびシャトー=ラルシェ領主(在位:1151年 - 1165/71年)。十字軍に参加し、ハリムの戦いで捕らえられ、捕虜のまま死去した。

生涯

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ユーグ8世は、ユーグ7世とサラシーヌ・ド・ルゼの長男としてポワトゥーで生まれた[1]。タイユブール領主ジョフロワ・ド・ランソンとその妻フォスフィー(ファルシフィー)・ド・モンコントゥールの娘フォントネー女領主ブルゴーニュ・ド・ランソンと結婚し[2]、ユーグもフォントネー領主となったが、ブルゴーニュは1169年4月11日に亡くなった。ユーグはジュアレンヌの領地を放棄し、特許状でヌアイユ修道院の領地とした[3]

1163年、ユーグ8世は十字軍に参加するため聖地へ向かったが、ハリムの戦いに参加しそこで捕虜となった[4]。ユーグ8世は捕囚の身で死去した[4]

子女

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ユーグ8世とブルゴーニュの間に以下の子女が生まれた。

  • ユーグ(1141年頃 - 1169年) - 1164年からリュジニャンの共同統治者[2]。1162年にオレンガルド(1169年没)と結婚し、2男をもうけた。
  • ロベール(1150年頃没) - 早世
  • ジョフロワ(1150年以前 - 1216年5月)[2] - 結婚によりモンコントゥール、スービーズ、ヴーヴァンおよびメルヴァンの領主、ヤッファおよびアスカロン伯(1191年7月28日 - 1193年)
  • ピエール(1155年以前 - 1174年12月以降)
  • エメリー(1145年 - 1205年) - キプロス王エルサレム王[2]
  • ギー(1159年 - 1194年) - エルサレム王、キプロス王[2]
  • ギヨーム(1163年以降 - 1208年以前) - 1186年にエデッサ伯ジョスラン3世の娘ベアトリクス・ド・クルトネーと婚約したが、結婚は行われなかった。

脚注

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  1. ^ Painter 1957, p. 38.
  2. ^ a b c d e f g Painter 1955, p. 376.
  3. ^ Painter 1957, p. 40.
  4. ^ a b Handyside 2015, p. 72.

参考文献

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  • Painter, Sidney (1955). “The Houses of Lusignan and Chatellerault 1150-1250”. Speculum (The University of Chicago Press) 30 (3 July). doi:10.2307/2848076. JSTOR 2848076. 
  • Painter, Sidney (1957). “The Lords of Lusignan in the Eleventh and Twelfth Centuries”. Speculum (The University of Chicago Press) 32, No. 1,(Jan.): 27–47. doi:10.2307/2849244. JSTOR 2849244. 
  • Handyside, Philip (2015). The Old French William of Tyre. Brill 
先代
ユーグ7世
リュジニャン領主
1151年 - 1171年以降
次代
ユーグ9世