ベアトリクス・ド・クルトネー
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ベアトリクス・ド・クルトネー Béatrix de Courtenay | |
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死去 |
1245年以降 |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ヘンネベルク伯領、フラウエンロート修道院 |
配偶者 | ウィリアム・ド・ヴァランス |
オットー・フォン・ボーテンラウベン | |
子女 |
オットー ハインリヒ |
家名 | クルトネー家 |
父親 | エデッサ伯ジョスラン3世 |
母親 | アニェス・ド・ミリー |
ベアトリクス・ド・クルトネー(フランス語:Béatrix de Courtenay, ? - 1245年以降)は、名目上のエデッサ女伯。ヘンネベルク伯オットー・フォン・ボーテンラウベンの妃[1]。
生涯
[編集]ベアトリクスはアニェス・ド・ミリーとエデッサ伯ジョスラン3世の長女である[1][2]。父ジョスラン3世はシャステル・ヌフとトロンをドイツ騎士団に売却した[1]。ベアトリクスの名はジョスラン3世の母親にちなんで名付けられた。
ベアトリクスは最初にウィリアム・ド・ヴァランス(ユーグ8世・ド・リュジニャンの息子)と婚約した。1208年までにベアトリクスはヘンネベルク伯オットーと結婚し、息子オットーとハインリヒを産んだ。
1220年、ベアトリクスとその夫オットーは、ガリラヤの領地をドイツ騎士団に売却した[3]。
オットーとベアトリクスは1231年にフラウエンロートにシトー会修道院を創建し、2人は同修道院に埋葬された[4]。
脚注
[編集]- ^ a b c Pringle 1998, p. 30.
- ^ Mayer 1980, p. 171-216.
- ^ Strehlke, 1869, pp. 43- 44, No. 53; cited in Röhricht, 1893, RHH, p. 248, No. 934 (38); cited in Frankel, 1988, pp. 253, 264–5
- ^ Bumke 1991, p. 289.
参考文献
[編集]- Bumke, Joachim (1991). Courtly Culture: Literature and Society in the High Middle Ages. University of California Press
- Frankel, Rafael (1988). “Topographical notes on the territory of Acre in the Crusader period”. Israel Exploration Journal 38 (4): 249–272.
- Mayer, H.E. (1980). “Die Seigneurie de Joscelin und der Deutsche Orden”. Die geistlichen Ritterorden Europas. Vorträge und Forschungen. 26. B.R.D.
- Pringle, D. (1998). The Churches of the Crusader Kingdom of Jerusalem: A Corpus: Volume 2, L-Z. Cambridge University Press
- Röhricht, R. (1893) (Latin). (RRH) Regesta regni Hierosolymitani (MXCVII-MCCXCI). Berlin: Libraria Academica Wageriana
- Strehlke, E., ed (1869). Tabulae Ordinis Theutonici ex tabularii regii Berolinensis codice potissimum. Berlin: Weidmanns