コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチ

アントニ・ブロドフスキAntoni Brodowski)による肖像

ラヴィチRawicz)のポーランド語版
生誕 (1758-02-06) 1758年2月6日
ポーランド・リトアニア共和国ブレスト近郊スコキ(いずれも現ベラルーシ領)
死没 1841年5月21日(1841-05-21)(83歳没)
フランスパリ
国籍 ポーランド
職業 詩人、劇作家、政治家
配偶者
スーザン・リビングストン・キーン
(結婚 1800年、彼女の死去 1833年)
テンプレートを表示

ユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチ(Julian Ursyn Niemcewicz、ポーランド語: [ˈjuljan ˈursɨn ɲɛmˈtsɛvitʂ]アメリカ: [njɛmtˈsvɪ] nyemt-SAY-vitch[1]; 1758年2月6日1841年5月21日)は、ポーランドの詩人、劇作家、政治家。1791年5月3日の憲法を先導して擁護した人物であった[2]

若き頃

[編集]

ユリアンは1758年2月6日、ポーランド・リトアニア共和国ブレスト(現ベラルーシ領)近郊のスコキSkoki; 同じく現ベラルーシ領)で生まれた。適度に裕福なポーランド貴族の家の末裔である彼は、ワルシャワ士官候補生団英語版を卒業した[3]

経歴

[編集]
バルヴィツキ(Barwicki)による『ニェムツェヴィチ』。

士官候補生団を卒業後アダム・カジミェシュ・チャルトリスキの補佐官を務め、フランスイングランドイタリアを歴訪する。彼は1788年から1792年までの4年間セイムの議員を務め、歴史的な1791年5月3日の憲法の採択を推し進めた愛国派の活発な党員であった。彼はその後、その進歩的な文書の実施を支援するために結成された憲法の友(ポーランド語: Zgromadzenie Przyjaciół Konstytucji Rządowej)の創設者でもあった。 1792年のタルゴヴィツァ連盟の勝利やその結果としての5月3日憲法の転覆の後、彼は他の愛国派のメンバーとともにドイツへの移住を余儀なくされる[2]

1795年のコシチュシュコ蜂起の間、彼はタデウシュ・コシチュシュコの補佐官を務めていたが、この2人とニェムツェヴィチの副官であったクジニェフスキ(Kuźniewski)という人物は1794年のマチェヨヴィツェの戦い英語版でロシア軍の捕虜となり、サンクトペテルブルクペトロパヴロフスク要塞へ投獄された[4][5]。1796年、女帝エカチェリーナ2世の死後、彼らはパーヴェル1世によって解放され、共にアメリカ合衆国へと向かった[6]。彼らはイングランドのブリストルからアドリアーナ号(Adriana)という船に乗って、ポルトガルの修道院長・植物学者でニェムツェヴィチやコシチュシュコの牧師も務めたジョゼ・コレイア・ダ・セラ[注 1]と共に航海した。彼らは1797年8月18日フィラデルフィアに到着した[7]。アメリカ滞在中、彼はナイアガラの滝を訪れた[8]。1798年、彼はアメリカ哲学協会のメンバーとして選出された[9]

彼はコシチュシュコが何の知らせもなくヨーロッパに向けて逐電した際には動揺した[10]ナポレオンが1807年にポーランドに侵攻した後、ニェムツェヴィチはワルシャワに戻り、上院の秘書になった[11]ウィーン会議の後、彼は国務長官およびポーランドの憲法委員会の委員長を務めた。ポーランド王国時代、ニェムツェヴィチはポーランドの文化的生活の中心人物であり、彼の倫理的な影響力はコンスタンチン大公の政治・軍事力に比されるものであった[2][12]

1830年5月11日、彼はワルシャワの「科学の友協会英語版」の中心地であるスタシツ宮殿英語版前に、新たなランドマークとして彫刻家ベルテル・トルバルセンによるニコラウス・コペルニクス記念碑英語版の披露を行った。失敗に終わることとなる11月蜂起(1830年-31年)の間、彼はポーランド政府の反乱軍のメンバーであった。蜂起の最後の数ヶ月で、詩人でもあった彼は外交的使命から(イギリスへの最後のポーランド特使として)ロンドンへと赴き、1841年に亡くなるまで、当初はイギリス、ついでフランスで亡命生活を送り続けることとなった[2][13]

作品

[編集]

ニェムツェヴィチは書き手としては多くの作品形式に挑んだ。彼の政治喜劇 Powrót posła〈議員の帰還〉(1790年) は、大きな好評を得た[14]ウォルター・スコット卿のスタイルで書かれた彼の小説、Jan z Tęczyna〈テンチンのヤン〉(1825年) は、古きポーランドの活気に満ちた雰囲気を伝えている。彼はまた Dzieje panowania Zygmunta IIIズィグムント3世の治世の歴史〉(全3巻、1819年) と古代ポーランドの歴史に関する回想録集(全6巻、1822年から23年)を書いた[15]

彼の1817年の時事小論文 Rok 3333 czyli sen niesłychany〈3333年すなわち前代未聞の夢)は、死後の1858年になって初刊行されたが、ここでは邪悪な Judeopolonia[注 2] に変貌したポーランドが描かれている。このパンフレットに関しては、「既存の社会構造を直接的に脅かす組織化されたユダヤ人の陰謀という概念を大規模に助長することになる最初のポーランド語作品」と述べられている[16]。彼の作品集は1838年から40年にライプツィヒで47巻が出版された[15]

私生活

[編集]
ワルシャワのウルスィヌフUrsynów)地区にあるクラシンスキ宮殿は1822年以降はニェムツェヴィチの邸宅であった

アメリカ合衆国にいる間、ニェムツェヴィチは裕福な未亡人リビングストン・キーン(Livingston Kean; 出生名: スーザン・リビングストン)と出会い、1800年に結婚したが、彼女はその前に彼を息子のピーター・キーンの家庭教師として雇っていた[17][18]リビングストン家英語版の一員であったスーザンはピーター・ヴァン・ブルー・リビングストンの娘であり、大陸会議サウスカロライナ州代表であるジョン・キーンJohn Kean)の未亡人であった[11][19]

ユリアンは1841年5月21日にフランスのパリで83歳で亡くなり、ヴァル=ドワーズ県のモンモランシーにあるシャンポー(Champeaux)墓地に埋葬された[17][20]

刊行された作品

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ José Correia da Serra(1750年–1823年)。植物学的には後の1800年にベルノキをオレンジの仲間と分析して今日受容されている Aegle marmelos という学名を提唱し、1807年にはセンダン科の果樹ランサ Lansium domesticum を新種として記載するといった業績を挙げることとなる。
  2. ^ ポーランドがユダヤ人に乗っ取られるのではないかという反ユダヤ主義陰謀論

出典

[編集]
  1. ^ "Niemcewitz". Merriam-Webster Dictionary. 2021年4月28日閲覧
  2. ^ a b c d Knight, Charles (1856) (英語). The English Cyclopaedia: A New Dictionary of Universal Knowledge. Bradbury and Evans. p. 519. https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.45180 2 April 2018閲覧。 
  3. ^ To George Washington from Julian Ursyn Niemcewicz, 14 June 1798” (英語). founders.archives.gov. Founders Online. 2 April 2018閲覧。
  4. ^ Kneski, John. “The History of the Kuźniewski Clan of Koziebrody”. Kuzniewski & Kneski Genealogy - The History of the Kuźniewski Family. Prof. John Kneski. 2 April 2016閲覧。
  5. ^ Niemcewicz, Julian Ursyn (2008) (英語). Notes of My Captivity in Russia. ISBN 9780554505015. https://books.google.com/books?id=uLpvTnSXj7MC 2 April 2018閲覧。 
  6. ^ Kusielewicz, Eugene; Niemcewicz, Julian Ursyn; Jefferson, Thomas (1961) (英語). Julian Ursyn Niemcewicz and America. Polish Institute of Arts and Sciences in America. https://books.google.com/books?id=4HJWAAAAMAAJ 2 April 2018閲覧。 
  7. ^ “Abbe Correa de Serra, the Priest Ambassador of Portugal to the United States, "The Most Enlightened Foreigner That Ever Visited This Country," the "Most Extraordinary Man Living" and "Claimed as One of the Fathers of Our Country"”. The American Catholic Historical Researches 1 (1): 30–43. (1905). ISSN 2155-5273. JSTOR 44374476. https://www.jstor.org/stable/44374476. 
  8. ^ New-York Historical Society (1959) (英語). New York Historical Society Quarterly. New-York Historical Society. p. 73. https://books.google.com/books?id=2nfjAAAAMAAJ 2 April 2018閲覧。 
  9. ^ APS Member History”. search.amphilsoc.org. 2021年3月31日閲覧。
  10. ^ Niemcewicz, Under Your Vine and Fig Tree.
  11. ^ a b Wilson, J. G.; Fiske, J., eds. (1900). "Niemcewicz, Julian Ursin, Count" . Appletons' Cyclopædia of American Biography (英語). New York: D. Appleton.
  12. ^ Fish, Hamilton (1977) (英語). Lafayette in America during and after the Revolutionary War and other essays on Franco-American relations. Vantage Press. p. 236. ISBN 9780533023141. https://books.google.com/books?id=IgARAQAAMAAJ 2 April 2018閲覧。 
  13. ^ Harrison, Mrs. Martha J. Lamb; Burton, Mrs. (1896) (英語). HISTORY OF THE CITY OF NEW YORK; ITS ORIGIN RISE, AND PROGRESS. pp. 448–449. https://archive.org/details/historycitynewy01lambgoog 
  14. ^ Robinson, Edward (1834) (英語). The Biblical Repository. Gould and Newman. p. 512. https://archive.org/details/biblicalreposit00robigoog 2 April 2018閲覧。 
  15. ^ a b Lach-Szyrma, Krystyn (1823) (英語). Letters, Literary and Political, on Poland: Comprising Observations on Russia and Other Sclavonian Nations and Tribes. Constable. p. 281. https://books.google.com/books?id=ZwIeAQAAMAAJ&pg=PA281 2 April 2018閲覧。 
  16. ^ Opalski, Magdalena; Bartal, Israel (1992). Poles and Jews: A Failed Brotherhood. University Press of New England. https://books.google.com/books?id=VQqO8LBNBbsC&pg=PA29 
  17. ^ a b Turner, Jean-Rae; Koles, Richard T. (2003) (英語). Elizabeth: First Capital of New Jersey. Arcadia Publishing. p. 55. ISBN 9780738523934. https://books.google.com/books?id=1F6iYssnaVkC&pg=PA55 2 April 2018閲覧。 
  18. ^ Turner, Jean-Rae; Koles, Richard T. (2001) (英語). Hillside. Arcadia Publishing. p. 21. ISBN 9780738508641. https://books.google.com/books?id=rfrqNbA9PFsC&pg=PA21 2 April 2018閲覧。 
  19. ^ Alghandoor, Erin; Esposito, Frank J.; Hyde, Elizabeth; Mercantini, Jonathan (2017) (英語). Kean University. Arcadia Publishing. p. 203. ISBN 9781439660584. https://books.google.com/books?id=Z1G1DgAAQBAJ&pg=PT203 
  20. ^ (英語) The Polish Review. Polish Information Center. (1944). pp. 6–7. https://books.google.com/books?id=Ek8rAAAAMAAJ 2 April 2018閲覧。 
  21. ^ 吉上昭三ニエムツェビッチ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。
  22. ^ a b ニェムツェーウィチ」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』2014年。
  23. ^ 土谷, 直人「レレーヴェルの歴史学――ポーランド文明史学の始まりに寄せて――」『東海大学紀要. 文学部』第77巻、2002年、21頁。 

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]