モスクワ東洋学院
座標: 北緯55度45分36.8秒 東経37度38分05秒 / 北緯55.760222度 東経37.63472度
Моско́вский институ́т востокове́дения: МИВ | |
開学期間 | 1920年(廃止:1954年)–1954年 |
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所在地 |
ソビエト連邦 モスクワ |
モスクワ東洋学院(モスクワとうようがくいん、ロシア語: Моско́вский институ́т востокове́дения: МИВ) は、1920年から1954年まで、当時のソビエト連邦モスクワに存在していた高等教育機関の通称。
沿革
[編集]1918年、マクシム・ゴーリキーはウラジーミル・レーニンへの書簡で東洋学院創設の構想を提起した。
1919年3月4日、レーニンはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員会議の命令書に署名し、旧ラザレフ東洋言語学院(Лазаревский институт восточных языков)を改組して、新たな東洋学院の創設を命じた。この新たな東洋学院は、1920年9月7日に正式発足した。次いで、翌1921年10月27日には、それまでモスクワに存在していたすべての東洋学研究組織が、モスクワ東洋学院(МИВ)に統合された[1]。インド諸語部門や近隣諸国および中東諸国の言語部門は、事実上そのままモスクワ国際関係大学(МГИМО)に統合された[2]。
この組織は、正式名称にナリマン・ナリマノフの名を冠し、N. N. ナリマノフ記念東洋学院(ロシア語: институт востоковедения имени Н. Н. Нариманова)であったが、一般的には地名を付けてモスクワ東洋学院と通称された[1]。日本語では、「東洋学専門学校」「東方学院」「東洋大学」などと表記されることがある[3][4]。
旧校舎と立地
[編集]モスクワ東洋学院(МИВ)は、1954年に廃校となった。学院だった建物には、現在はアルメニア大使館が入っている。
著名な出身者
[編集]- エフゲニー・プリマコフ(Примаков, Евгений Максимович)
- イーゴリ・ラティシェフ(Латышев, Игорь Александрович)
- ユリアン・セミョーノフ(Семёнов, Юлиан Семёнович)
関係したおもな日本人
[編集]参照項目
[編集]出典・脚注
[編集]- ^ a b “Московский институт востоковедени”. Академик. 2011年11月11日閲覧。
- ^ Официальный сайт МГИМО
- ^ モスクワ東洋学専門学校
- ^ コミンテルンが創設した東方勤労者共産大学(1921~1938年)とは別の学校であるが、存続した時期が重なることや、その邦訳名故に混同される場合がある。
外部リンク
[編集]- Московский институт востоковедения (Большой советской энциклопедии - М.: Советская энциклопедия. 1969-1978 の記事).