ミル・ガサン・ヴェジロフ
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ミル・ガサン・キャジム・オグルィ・ヴェジロフ Мир Гасан Кязим оглы Везиров Mir Həsən Kazım oğlu Vəzirov | |
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生年 | 1889年 |
生地 | ロシア帝国エリザヴェトポリ県シュシャ郡シュシャ |
没年 | 1920年9月20日 |
没地 | ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ザカスピ州クラスノヴォツク郡、カスピ海横断鉄道ペレヴァル駅=アフチャ・クイマ駅間[1] |
思想 | 社会主義 |
活動 | バクー・コミューンの指導 |
所属 | 社会革命党左派 |
母校 | キエフ商科学院 |
ミル・ガサン(ハサン)・キャジム・オグルィ・ヴェジロフ(ロシア語: Мир Гасан Кязим оглы Везиров、アゼルバイジャン語: Mir Həsən Kazım oğlu Vəzirov)はアゼルバイジャン人の革命家であり、26人のバクー・コミッサールの一員である。
生涯
[編集]1889年、ロシア帝国エリザヴェトポリ県シュシャで教師の家庭に生まれた[2]。曽祖父はカラバフ・ハン国のイブラヒム・ハリム・ハンに仕えた高官であった[3]。地元の[4]実家学校に在学中から革命運動に関わり、政府から弾圧を受けた[2]。1915年にキエフ商科学院に入学し、その後バクーで教師として働いた[4]。所属の革命組織は社会革命党であったが、1917年からは第一次世界大戦への参戦継続に反対する左派分派指導者となり[5]、ボリシェヴィキと協同するようになった[2]。同年初頭の数か月間故郷シュシャで革命運動に携わり、その後バクーへ戻って[4]ソビエト執行委員会メンバーに就いた[2]。
翌1918年にバクー・コミューンが成立するとその農業委員に就任した[2]。同年のムスリム虐殺(三月事件)に関与したとの主張があるが、一方で虐殺を食い止めるために尽力していたとの主張もある[6]。5月からはバクー郡 (ru) 農民ソビエト執行委員会副議長となり、翌6月18日には不動産の小作農への再配分令に署名している[2]。しかし、コミューンが崩壊すると社会革命党に捕らえられ、他のコミューン成員とともに9月20日に銃殺された[2]。
脚注
[編集]- ^ Бакинские комиссары / Л. С. Шаумян // Ангола — Барзас. — М. : Советская энциклопедия, 1970. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 2).
- ^ a b c d e f g I Вези́ров // Брасос — Веш. — М. : Советская энциклопедия, 1971. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 4).
- ^ “Mir Hasan Vezirov”. Zeyton. 2017年3月14日閲覧。
- ^ a b c “Public figures”. Azerbaijan Republic Garabagh Region. 2017年3月14日閲覧。
- ^ “Siyasi Partiyalar”. Azərbaycan Respublikası Prezidentinin İşlər İdarəsinin Siyasi Sənədlər Arxivi. 2017年3月14日閲覧。
- ^ Sariyeva, İradə (2009年2月3日). “Əsl “26-lar” abidəsinin AXC hakimiyyəti vaxtı söküldüyünə dair yeni sensasiya... Həsən Kərimov: “Cəbhə hakimiyyəti dövründə həqiqətən “Hüzn sütunu deyilən 10x12 metr ölçüdə abidə söküldü””. Bakı xəbər: p. 7