マーク堀越 対 高橋ナオト戦
開催日 | 1989年1月22日 | |
認定王座 | 日本ジュニアフェザー級 | |
開催地 | 東京 | |
会場 | 後楽園ホール | |
放送局 | 日本テレビ系列 | |
実況・解説 | 芦沢俊美 ファイティング原田 小林弘 浜田剛史 | |
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マーク堀越 対 高橋ナオト | ||
比較データ | ||
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27 | 年齢 | 21 |
カリフォルニア州サクラメント | 出身地 | 東京都調布市 |
17勝(13KO)1敗 | 戦績 | 15勝(10KO)2敗 |
162 | 身長 | 170 |
165 | リーチ | 173 |
五戸定博(八戸帝拳ジム) | 指導者 | 阿部幸四郎(アベボクシングジム) |
日本ジュニアフェザー級王者 | 評価 | 日本ジュニアフェザー級1位 |
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結果 | 高橋の9回KO勝ち | |
主審 | 島川威 | |
副審 | 内田正一 森田健 |
マーク堀越 対 高橋ナオト戦(マークほりこし たい たかはしナオトせん)は、1989年1月22日に東京・後楽園ホールで行われた日本ジュニアフェザー級タイトルマッチ。6連続KO防衛中の王者マーク堀越(米国・八戸帝拳ジム)に、元日本バンタム級王者の高橋ナオト(アベボクシングジム)が挑み、ダウンの応酬の末、9回KO勝ちで、高橋が2階級制覇を達成した[1][2]。
日本ボクシング史上屈指の名勝負として名高く[3][4]、同年の日本ボクシング年間最高試合に選定された。
解説
[編集]チャンピオンのマーク堀越(本名マーク・ブルックス[5])はアメリカ・カリフォルニア州出身の黒人ボクサー。青森の米軍三沢基地に勤務しながらボクシングジムに通い、1984年にプロデビュー。1987年に日本ジュニアフェザー級タイトルを獲得し、6連続KO勝ちを続け、WBA世界ランキング6位に名を連ねるハードパンチャーであった。
挑戦者の高橋ナオトは高校時代に新人王を獲得し、1987年にデビュー11連勝で日本バンタム級タイトルを獲得。減量苦からジュニアフェザー級に転向し、日本ランキング1位の指名挑戦者として堀越に挑む。卓越したカウンターパンチを持ち、日本のボクシング冬の時代における期待の星だった。
年齢はマークの方が6歳上だが、ボクシングキャリアはマーク18戦17勝(13KO)1敗、高橋17戦15勝(10KO)2敗でほぼ同じ。人気・実力を兼ね備えた両雄の対決は日本テレビ系列『ダイナミックグローブ』で、日本タイトル戦としては異例の生中継が行われた[6]。同中継には特別ゲストとしてボクシングファンの片岡鶴太郎、香川照之が招かれた。
試合
[編集]元号が昭和から平成に改められてから2週間後、超満員の観衆がつめかけた後楽園ホールで日本ジュニアフェザー級タイトルマッチは行われた。
第1ラウンドは両者とも冷静な立ち上がり。高橋は軽快なフットワーク、マークは摺り足で、互いに距離を取りながら左ジャブを交換する。
第2ラウンド2分過ぎ、高橋の左フックがヒット。チャンスと見て連打を放つが、マークも重いパンチを打ち返し、互角の展開。
第3ラウンドも高橋が先に仕掛けるが、マークが接近戦で圧力をかけ、高橋を追っていく。ラウンド終盤、ロープ際でマークの左フック・右ストレートをまともに喰らい、高橋がのけぞるが、ゴングに救われた。
第4ラウンド、ダメージの残る高橋を仕留めようと、マークがフックとアッパーを浴びせかける。1分半過ぎ、赤コーナー付近でもつれ合う中、高橋の右ショートカウンターがマークの顎をとらえ、右ストレートでダウンを奪う。足元がふらつくマークにラッシュをかけ、2分過ぎに2度目のダウン。もう1度ダウンを奪えばKO勝ちとなるが、高橋も打ち疲れており、マークが何とかしのぎ切った。思わぬ形勢逆転に場内騒然となる。
第5ラウンド、KOを期待する観衆から大きな「ナオト」コールが起こる。マークはまだ足元がおぼつかず、2分20秒、高橋の右カウンターでぐらつき、この試合初のクリンチ。高橋がラッシュをかけるが、マークも何発かパンチを当て返す。
第6ラウンド、ダメージの回復したマークが前に出る。高橋は足を使いながら的確にカウンターを当てる。
第7ラウンド、マークの攻勢が続き、1分20秒、大振りの右フックがヒット。高橋はスピードが落ちてきており、パンチを被弾する場面が増える。
第8ラウンド1分30秒、ロープ際でマークの右フックが命中し、高橋は耐えきれぬように膝をついてダウン。悔し気にキャンバスを叩く。ただし、反撃する意欲は残っており、仕留めにかかるマーク相手に一歩も引かず、強打の応酬。
第9ラウンド1分過ぎ、マークの連打に高橋の足がもつれる。ロープ際に追いつめられるが、1分20秒過ぎ、高橋の起死回生の左カウンターがヒットし、マークがよろめく。形勢は一気に逆転し、1分50秒、高橋の右ストレートでマークがこの試合3度目のダウン。笑顔を見せて「効いていない」とアピールするが、2分30秒、右ストレートをうけて、もんどりうつ様に4度目のダウン。すぐに立ち上がりファイティングポーズをとったが、足元はぐらついており、レフェリーはダウンカウント途中に続行不能と判断。9ラウンド2分42秒、高橋のKO勝利を宣告した。新チャンピオンとなった高橋は両手を挙げ、膝を折ってリングに突っ伏した。形勢が二転三転し、あわせて5度のダウンを奪い合う熱戦の結末に、場内は興奮と感動に包まれた。
ふたたび、客席を眺める。姿のいい若い男たちが、場内のあちこちで、棒立ちになって泣いている。あるいは、彼らの青春において、以後、二度と経験することがないかもしれない、深い深い共感の涙。勝者・敗者にひとしく贈る、心からの共感。 — 佐瀬稔 『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』、70頁
エピソード
[編集]マーク堀越は身長162cmと小柄ながら、彫刻のように研ぎ澄まされた筋肉をまとうハードパンチャーだった。しかし、普段の性格は優しく、アメリカで離れて暮らす子供たちに会いたいといって、よく泣いていたという。試合の3週間前、がんで危篤状態の父親に会うため帰国し、葬儀を終えてから1週間前に日本へ戻り、試合までにスパーリングを2回しかできなかった。この試合に敗れて世界挑戦の夢断たれ、アメリカに帰国。1998年までローカルリングで戦い、2014年4月に52歳で病死した[5]。なお、日本チャンピオンを獲ったカーロス・エリオットやリック吉村もマークと同じく、米軍三沢基地で働く、八戸帝拳ジム所属のボクサーだった。
高橋ナオトのセコンドの指示は「左ジャブを使ってアウトボクシング」だったが、高橋は「打たれたら打ち返す」という負けん気の強いボクサーだった。じつは第3ラウンド途中から意識が朦朧としており、ダウンを奪ったことも奪われたこともはっきり覚えていない[6]。第4ラウンド後のインターバル中、セコンドの阿部会長に「オレ、倒されたんですかね」と聞いたら「バカヤロー、お前が倒したんだ!」と怒鳴られた。第8ラウンド終盤に意識が戻り、「ラウンド・ナイン」という場内放送を聞いてハッとしたという。第9ラウンド、マークが2度目のダウンから立ち上がった時には、ニュートラルコーナーで「レフェリー止めてくれ、お願いだから」と祈っていた。この試合から4ヵ月後、タイ王者ノリー・ジョッキージムとのノンタイトル戦でも、第2ラウンドにダウンを喫しながら第3ラウンドに逆転KO勝ちし、「逆転の貴公子」という二つ名を広めた[6]。
高橋は1991年に引退した後、ボクシング漫画『はじめの一歩』を読んで米兵ボクサー、ジェイソン・尾妻のモデルがマーク堀越ではないかと思い、掲載誌の週刊少年マガジン編集部に電話した[7]。そこで編集担当から作者の森川ジョージが自分の大ファンであること、宮田一郎のモデルが自分であることを知らされ、森川の連絡先を教えられた[7]。そこから森川と高橋の親交が始まり、森川がオーナー、高橋が会長としてJBスポーツクラブを設立することにつながった[8]。
参考文献
[編集]- 佐瀬稔 『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』、世界文化社、1992年、ISBN 4418925066
- 高橋直人 『殴られた犬の誇り』、ネコ・パブリッシング、2004年、ISBN 477705070X
脚注
[編集]- ^ 後楽園ホールアーカイブス:後楽園ホールの格闘史(1980年~1989年) 東京ドームシティ
- ^ “【写真特集】負の連鎖止めた大橋秀行、下馬評覆した竹原慎二ら名勝負5傑/後楽園ホール60年”. 日刊スポーツ (2022年4月16日). 2022年8月27日閲覧。
- ^ [ボクシング]近藤隆夫「マーク堀越死去……高橋ナオトと話したこと」 現代ビジネス 2015年7月7日
- ^ 名勝負を生み続ける聖地。後楽園ホール50年の記憶。~ボクシングで最高の試合は?~ Number Web 2012年4月3日
- ^ a b “マーク堀越さん母国で病死、高橋ナオトと名勝負”. (2015年6月15日) 2023年1月16日閲覧。
- ^ a b c 後楽園ホールアーカイブス:ザ・インタビュー(高橋 ナオトさん) 東京ドームシティ
- ^ a b 『殴られた犬の誇り』、27-29頁。
- ^ 『殴られた犬の誇り』、35頁。