マンフレード1世 (サルッツォ侯)
表示
マンフレード1世 Manfredo I | |
---|---|
サルッツォ侯 | |
在位 | 1142年 - 1175年 |
出生 |
1123年以前 |
死去 |
1175年 |
配偶者 | エレオノーラ・ダルボレーア |
子女 | サルッツォ侯マンフレード2世 |
家名 | デル・ヴァスト家 |
父親 | ボニファーチョ・デル・ヴァスト |
母親 | アニェス・ド・ヴェルマンドワ |
マンフレード1世(イタリア語:Manfredo I, 1123年以前 - 1175年)は、初代サルッツォ侯(在位:1142年 - 1175年)[2]。
生涯
[編集]マンフレードは、サヴォーナとタナロの間に点在する領地の支配者であったボニファーチョ・デル・ヴァストの7人の息子のうちの長男として生まれた。マンフレードは1123年の記録に初めてその名が見られる。父ボニファーチョが1125年に死去した後、領地は兄弟たちで共同統治をしたが、1142年に分割した。マンフレードはアルプス山脈、ポー川およびストゥーラの間の領地を得た。マンフレードの領地は弟たちの領地よりも広く、新たに侯領となるのにふさわしい地であった[2]。マンフレードは死去の後に「サルッツォ侯」と呼ばれるようになった。マンフレードは生前には、領地の名を加えない「侯爵」、あるいは「デル・ヴァスト侯(marchio de Vasto)」の称号を用いた[2][3]。また、自領の中心にあり戦略的に重要なサルッツォ城を居城とした[2][4]。
1127年、マンフレードはスタッファルダ修道院を創建した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と同盟を結び、フリードリヒ1世を封主と認め、フリードリヒ1世とロンバルディアの都市との間の和平を維持しようと努めた[2]。4枚の特許状により、マンフレードがミラノ(1161年)、トリノ(1162年)およびリミニ(1167年)のフリードリヒ1世の宮廷に定期的に出席していたことがわかる[3][5]。
マンフレードはゴナリオ2世・ダルボレーアの娘エレオノーラと結婚した[6]。1175年にマンフレードは死去し、息子マンフレード2世が侯位を継承した[2]。
脚注
[編集]- ^ Florence Bouchet, "Héroïnes et mémoire familiale dans le Chevalier errant de Thomas de Saluces", Clio. Histoire‚ femmes et sociétés 30 (2009).
- ^ a b c d e f Maddalena Moglia (2017). "Saluzzo, marchesi di". Dizionario Biografico degli Italiani, Volume 89: Rovereto–Salvemini (in Italian). Rome: Istituto dell'Enciclopedia Italiana. ISBN 978-8-81200032-6
- ^ a b Armando Tallone, Regesto dei marchesi di Saluzzo (1091–1340) (Pinerolo, 1906), nos. 37, 40, 44, 51.
- ^ Manfrédo I marchese di Saluzzo, Enciclopedia on line, Treccani. Retrieved 18 February 2022.
- ^ Charles William Previté-Orton, The Early History of the House of Savoy (1000–1233) (Cambridge University Press, 1912), p. 332.
- ^ Riccardo Rao, "Fra comune e marchese. Dinamiche aristocratiche a Vercelli (XII-XIII secolo)", Studi Storici 4, 1 (2003), pp. 43–93. jstor 20567183
|
|
|