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マングダイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マングダイとは、大元ウルスの将軍の一人で、タタル部の出身。『元史』などの漢文史料では忙兀台(mángwùtái)と記される。5代皇帝クビライから6代テムルにかけての主要な戦役(帝位継承戦争南宋侵攻カイドゥの乱)に参加し、いずれにおいても武功を残した有力な将軍であった。

概要

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マングダイの祖父タシュ・コルチは第2代皇帝オゴデイの金朝親征に従軍した人物で、この時の功績により東平路ダルガチに任じられていた。その孫にあたるマングダイは第5代皇帝のクビライに仕え、最初は博州路ダルガチに任じられた。1270年(至元7年)には監戦万戸、1271年(至元8年)には鄧州新軍蒙古万戸に任じられ、万山南岸にて水軍を治めた。同年9月から樊城の攻囲(襄陽・樊城の戦い)に加わり、安陽灘の戦いでは敵将の鄭高を捕虜とする功績を挙げた。翌10月には全軍を5つに分けての樊城総攻撃が始まり、マングダイはそのうちの1軍を指揮して敵軍の船を焼き払い、西南部に橋頭堡を作ることに成功した。マングダイの功績はこの総攻撃に加わった者たちの中でも一番で、襄陽が陥落すると投降した襄陽守将の呂文煥とともにクビライに謁見し、銀50両・翎根甲を与えられた[1]

1274年(至元11年)に裏陽が陥落しバヤンを総司令とする南末全面侵攻が始まると、マングダイはアジュ率いる軍団に入って進撃した[2]1275年(至元12年)には蘄州黄州安慶府池州の諸郡に投降を迫り、これらの州県は皆モンゴルに下った。同年2月には丁家洲の戦い賈似道率いる南宋主力軍を破り、9月には常州を攻略した。また一度投降した南宋の将の趙潜が反乱を起こすとこれを鎮圧し、それまでの功績により12月には行両浙大都督府事に任じられた。1277年(至元14年)には閩広大都督に任じられ、未だ逃走を続ける南宋の幼主の追撃を任じられた。 諸軍を率いたマングダイは漳州にて抵抗を続ける何清を投降させる功績を挙げた。翌1278年(至元15年)には福州に帰還して参知政事に任じられ、更に左丞に昇格した[3]

1279年(至元16年)には沙県で反乱が起こったが、マングダイによって鎮圧されている。1281年(至元18年)には右丞に、1283年(至元21年)には江淮行省平章に転任した。1284年(至元22年)には浙西地方で飢荒が起こり、府庫を開くなどの対策を行った[4]

1289年(至元26年)には閩・越地方で群盗が起こり、マングダイとブルミシュカヤが討伐に向かった。この情報が朝廷に届けられた時、ウズ・テムルは将を選んで援軍として派遣すべきであると上奏したが、クビライは「マングダイが既に赴いたというのなら、何も心配すべきことはない」と述べ、実際にマングダイは難なく盗賊を平定したという。しかし、この頃からマングダイは病がちとなり、一度は朝廷に召喚された。翌1290年(至元27年)には江西平章のアウルクチが罷免されたのに代わって丞相兼枢密院事として江西に派遣され、よく現地を治めたものの、職務についてから40日目に亡くなった。息子にはテムル・ブカ(帖木児不花)、ブラルキ(孛蘭奚)、イラチュ(亦剌出)らがいた[5]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻131列伝18忙兀台伝,「忙兀台、蒙古達達児氏。祖塔思火児赤、従太宗定中原有功、為東平路達魯花赤、位在厳実上。忙兀台事世祖、為博州路奥魯総管。至元七年、又為監戦万戸、佩金虎符。八年、改鄧州新軍蒙古万戸、治水軍於万山南岸。九月、以兵攻樊、抜古城、継敗宋軍於安陽灘。転戦八十里、擒其将鄭高。十月、大軍攻樊、分軍為五道、忙兀台当其一。率五翼軍以進、焚南岸舟、竪雲梯於北岸、登櫃子城、奪西南角入城、命部将拠倉粟。功在諸将右、賞金百両。襄陽降、同宋安撫呂文煥入覲、賜銀五十両及翎根甲等物」
  2. ^ 『元史』巻131列伝18忙兀台伝,「十一年、従丞相伯顔・平章阿朮南征、命与万戸史格率麾下会塩山嶺。遇宋兵、忙兀台突陣殺一人、諸軍継進、与戦、敗之。自郢州黄家原蕩舟入湖、至沙洋堡、立砲座十有二、竪雲梯先登、焚其楼櫓、抜羊角壩、破沙洋堡、擒宋将四人。直抵新城、鏖戦自晨至晡、大敗之、宋復州守将翟貴以城降。将由漢口入江、至蔡店、聞宋兵屯漢口、乃率舟師経闘龍口至沙歩入江。遇宋兵三百餘艘分道来拒、進撃走之。次武磯堡、宋将夏貴堅守不下。十月乙卯、平章阿朮率万戸晏徹児・史格・賈文備同忙兀台四軍雪夜溯流西上、黎明至青山磯北岸、万戸史格先渡、宋将程鵬飛拒敵、格被三創、喪卒二百人。諸将継進、大戦中流、鵬飛被七創、敗走。舟泊中洲、宋兵阻水不得近、伯顔復遣万戸張栄実等率舟来援。夏貴率麾下数千将奔、大軍乗之、大敗、走黄州、遂抜武磯堡、斬守将王達。阿朮既渡南岸、翼日丞相伯顔視師、則大江南北皆北軍旗幟、宋制置使朱禩孫遁還江陵。語在『阿朮伝』。己未、伯顔次鄂州、遣忙兀台諭宋守臣張晏然以城降、程鵬飛以本軍降、知漢陽軍王儀・知徳安府来興国継降、乃留軍鎮鄂・漢、率諸将水陸東下」
  3. ^ 『元史』巻131列伝18忙兀台伝,「十二年正月、忙兀台諭蘄・黄・安慶・池州諸郡、皆下之。次丁家洲、宋賈似道・孫虎臣来拒、忙兀台撃之、奪虎臣所乗巨舟、与宋降将范文虎以兵五百諭降和州及無為・鎮巣二軍。九月、攻常州、抜其木城。宋降将趙潜叛於溧陽、伯顔命忙兀台撃之、戦於豊登荘、斬首五百餘級、擒其将三人、復招降湖州守将二人。十二月、行省第其功、承制授行両浙大都督府事。十四年、改閩広大都督、行都元帥府事。時宋二王逃遁入海、忙兀台奉旨率諸軍、与江西右丞塔出会兵収之、次漳州、諭降宋守将何清。十五年、師還福州、拜参知政事、詔与唆都等行省於福建、鎮撫瀕海八郡。十月、召赴闕、升左丞」
  4. ^ 『元史』巻131列伝18忙兀台伝,「十六年七月、沙県盗起、詔忙兀台復行省事、討平之。初、忙兀台北還、左丞唆都行省福建。一日、帝命召唆都、李庭言『若召唆都、則行省無人、宜令建康阿剌罕往』。帝曰『何必阿剌罕、其命忙兀台即往、候唆都還、則令移潭州可也』。未幾、中書言『唆都在福建、麾下擾民、致南剣等路往往殺長吏叛。及忙兀台至、招来七十二寨、建寧・漳・汀稍獲安集、若移之他処、而唆都復往、恐重労民』。有旨、忙兀台仍鎮閩。十八年、転右丞。時宣慰使王剛中以土人饒貲、頗擅作威福、忙兀台慮其有変、奏移之他道。二十一年、拜江淮行省平章政事。初、宋降将五虎陳義嘗助張弘範擒文天祥、助完者都討陳大挙、又資阿塔海徴日本戦艦三千艘。福建省臣言其有反側意、請除之。帝使忙兀台察之。至是忙兀台携義入朝、保其無事、且乞寵以官爵、丞相伯顔亦以為言。乃授義同知広東道宣慰司事、授明珠虎符、其従林雄等十人並上百戸。二十二年、脱忽思・楽実伝旨中書省、令悉代江浙省臣。中書復奏、帝曰『朕安得此言、伝者妄也。如忙兀台之通曉政事、亦可代耶』。俄以言者召赴闕、封其家貲、遣使按験無状。未幾、拜銀青栄禄大夫・行省左丞相、還鎮江浙。時浙西大飢、乃弛河泊禁、発府庫官貨、低其直、貿粟以賑之。浙東盗起、蠲田租、以紓民力。二十三年、奏『以販鬻私塩者皆海島民、今徴日本、可募為水工』。従之、賜鈔五千貫。役既罷、請以戦艦付海漕。又言『省治在杭州、其両淮・江東財賦軍実、既南輸至杭、復自杭北輸京城、往返労頓不便、請移省治於揚州』。復言『淮東近地、宜置屯田、歳入糧以給軍、所餘餉京師』。帝悉従其言。二十五年、詔江淮管内、並聴忙兀台節制」
  5. ^ 『元史』巻131列伝18忙兀台伝,「二十六年、朝廷以中原民転徙江南、令有司遣還、忙兀台言其不可、遂止。閩・越盗起、詔与不魯迷失海牙等合兵討之、御史大夫玉速帖木児奏宜選将、帝曰『忙兀台已往、無慮也』。未幾、悉平之。屡以病、上疏乞骸骨、乃召還。二十七年、以江西平章奥魯赤不称職、特命為丞相、兼枢密院事、出鎮江西。謹約束、鋤強暴、尊卑殊服、軍民安業、威徳並著、在官四十日卒。忙兀台之在江浙、専愎自用、又易置戍兵、平章不憐吉台言其変更伯顔・阿朮成法、帝毎誡勅之。既死、台臣劾郎中張斯立罪状、而忙兀台迫死劉宣及其屯田無成事、始聞於帝云。子三人帖木児不花;孛蘭奚、襲万戸;亦剌出、中書参知政事」

参考文献

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  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 堤一昭「元代華北のモンゴル軍団長の家系」『史林』75号、1992年