マルティン・レーブ
マルティン・フーゴ・レーブ Martin Hugo Löb | |
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生誕 |
1921年3月31日 ベルリン |
死没 |
2006年8月21日 (85歳没) オランダ アネン |
出身校 | ロンドン大学 |
博士論文 | A Methodological Characterization of Constructive Mathematics (構成的数学の方法論的特徴付け)[1] (1953) |
博士課程 指導教員 | ルーベン・グッドスタイン |
博士課程 指導学生 | ヨハン・ファン・ベンタム |
主な業績 | レーブの定理 |
配偶者 | キャロライン (Caroline) |
子供 | マリカ (Maryke)、ステファニー (Stefani) |
プロジェクト:人物伝 |
マルティン・フーゴ・レーブ (Martin Hugo Löb、ドイツ語: [løːp]、1921年3月31日 - 2006年8月21日) は、ドイツの数学者。第二次世界大戦後にイギリスに定住し、数理論理学を専門とした。1970年代にオランダに移住し、引退後も同国に留まった。彼は1955年にレーブの定理を定式化したことで最もよく知られている。
生い立ちと教育
[編集]レーブはベルリンで育ったが、第三帝国から逃れ、第二次世界大戦勃発直前にイギリスに到着した。敵国人として、彼は1940年にデュネラでオーストラリアのヘイにある抑留キャンプに送られた。19歳のレーブはそこで他の被抑留者から数学を教わった。彼の教師であったフェリックス・ベーレンドは、後にメルボルン大学の教授となった。
レーブは1943年にイギリスに戻ることを許可され、戦後ロンドン大学で学んだ。卒業後、レスター大学のルーベン・グッドスタインのもとで研究を始めた。博士号の取得後、1951年にリーズ大学の助講師 (assistant lecturer)となり、20年間勤務した。1967年から1970年まで数理論理学の準教授を務め、最終的には教授となった。レーブはリーズ大学の数理論理学グループをイギリス有数のセンターの一つに育てた。証明論、様相論理、計算可能性理論を研究し、1955年にレーブのパラドックスの形式的なバージョンとして、自身の証明可能性を主張するステートメントは真でなければならないという[疑問点 ]レーブの定理を定式化した(ゲーデルの不完全性定理に類似する)。
レーブの妻キャロラインはオランダ人であり、夫妻には2人の娘がいた。レーブは1970年代初頭にアムステルダム大学の教授に就任し、引退するまでアムステルダム大学に留まった。その後、アネンに移り、そこで死去した。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “マルティン・レーブ”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews.
- 死亡記事、ガーディアン、2006年10月3日
- 死亡記事、論理・言語・計算研究所、アムステルダム大学