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マルクス・コッケイウス・ネルウァ (紀元前36年の執政官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マルクス・コッケイウス・ネルウァ
M. Cocceius — f. — n. Nerva
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 コッケイウス氏族
官職 財務官代理兼法務官代理紀元前41年
執政官代理紀元前38年ごろ)
執政官紀元前36年
神事遂行十五人委員会紀元前31年 -)
担当属州 アシア属州紀元前38年ごろ)
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マルクス・コッケイウス・ネルウァラテン語: Marcus Cocceius Nerva、生没年不明)は紀元前1世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前36年執政官(コンスル)を務めた。

出自

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ネルウァは無名のプレブス(平民)であるコッケイウス氏族の出身である。コッケイウス氏族はウンブリアから来たと言われている[1]。氏族からはマルクス・アントニウスの支持者が多く出ており、ネルウァ以外には紀元前39年の補充執政官ガイウス・コッケイウス・バルブスなどがいる[2]

経歴

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紀元前41年、ネルウァはマルクス・アントニウスの下でプロクァエストル・プロプラエトル(財務官代理兼法務官代理)となり、ペルシアの戦いではルキウス・アントニウスと共に行動した[3]。ネルウァはアントニウス軍の将軍の中で、オクタウィアヌスと戦うことを拒否した一人であり、結果紀元前40年にアントニウスとオクタウィアヌスは和解することになる[4]紀元前38年ごろ、アントニウスはネルウァをプロコンスル(執政官代理)権限で、アシア属州の総督に任命位した[5]。このときにラギナをめぐる幾つかの戦いで勝利し、兵士たちからインペラトル(勝利将軍)の称号を得ている[6]

このようなアントニウスへの貢献の見返りとして、ネルウァは紀元前36年に執政官に就任した(6月で離職)。紀元前31年には神事遂行十五人委員会(Quindecimviri sacris faciundis)に選ばれ、紀元前29年にはパトリキ(貴族)身分になった[7]

子孫

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ネルウァには同名の息子がおり、第2代皇帝ティベリウスの側近となった。第12代皇帝ネルウァはひ孫である。

脚注

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  1. ^ Syme, pg. 200
  2. ^ Syme, pgs. 200 & 267
  3. ^ Broughton, pg. 372
  4. ^ Anthon & Smith, pg. 546
  5. ^ Syme, pg. 266
  6. ^ Syme, pg. 267
  7. ^ Broughton, MRR, p. 427

参考資料

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  • T. Robert S. Broughton, The Magistrates of the Roman Republic, Vol II (1952).
  • Syme, Ronald, The Roman Revolution, Clarendon Press, Oxford, 1939.
  • Anthon, Charles & Smith, William, A New Classical Dictionary of Greek and Roman Biography, Mythology and Geography (1860).

関連項目

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公職
先代
マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ I
ルキウス・カニニウス・ガッルス補充:
ティトゥス・スタティルス・タウルス I
執政官(途中離職)
紀元前36年
同僚:
ルキウス・ゲッリウス・プブリコラ(途中離職)
補充:
ルキウス・ノニウス・アスプレナス
クィントゥス・マルキウス・クリスプス
次代
セクストゥス・ポンペイウス
ルキウス・コルニフィキウス
補充:
プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ
ティトゥス・ペドゥカエウス