マリア・フォン・ホーエンシュタウフェン
表示
マリア・フォン・ホーエンシュタウフェン Maria von Hohenstaufen | |
---|---|
マリアとアンリ2世の結婚 | |
出生 |
1201年4月3日 イタリア、アレッツォ |
死去 |
1235年3月29日(33歳没) ブラバント公領、ルーヴェン |
埋葬 | ブラバント公領、ルーヴェン |
配偶者 | ブラバント公アンリ2世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ホーエンシュタウフェン家 |
父親 | ローマ王フィリップ |
母親 | イレーネー・アンゲリナ |
マリア・フォン・ホーエンシュタウフェン(ドイツ語:Maria von Hohenstaufen, 1201年4月3日 - 1235年3月29日)は、後にブラバント公となるアンリ2世の妃。夫が公位を継承する前に死去した。
生涯
[編集]マリアはローマ王フィリップとイレーネー・アンゲリナの娘としてイタリアのアレッツォで生まれた[1]。1208年6月21日、父フィリップはオットー8世・フォン・ヴィッテルスバッハに暗殺され、その2ヶ月後には母イレーネーが娘を出産した際に死去し、マリアは7歳で両親を失った。
結婚と子女
[編集]1215年8月22日より前に、ブラバント公およびロチエ公の継承者アンリ2世と結婚した[2]。2人の間には以下の子女が生まれた。
- マティルド(1224年 - 1288年) - アルトワ伯ロベール1世と結婚[2]、後にサン=ポル伯ギー3世と再婚。
- ベアトリス(1225年 - 1288年) - テューリンゲン方伯、対立ローマ王ハインリヒ・ラスペと結婚、後にフランドル伯ギヨーム2世と再婚[2]。
- マリー(1226年 - 1256年)[2] - 上バイエルン公兼ライン宮中伯ルートヴィヒ2世と結婚したが、ドナウヴェルトで姦通罪で処刑された[3]。
- マルグリット(1227年 - 1277年3月14日) - ヘルツォゲンタールの修道女
- アンリ3世(1230年 - 1261年)
- フィリップ - 早世[2]
死去
[編集]マリアは1235年3月29日にルーヴェンにおいて死去した。その半年後、夫アンリ2世はブラバント公位を継承した。
脚注
[編集]- ^ Baldwin 2014, p. 27.
- ^ a b c d e Dunbabin 2011, p. xiv.
- ^ Bumke 1991, p. 392.
参考文献
[編集]- Baldwin, Philip B. (2014). Pope Gregory X and the Crusades. The Boydell Press
- Bumke, Joachim (1991). Courtly Culture: Literature and Society in the High Middle Ages. University of California Press
- Dunbabin, Jean (2011). The French in the Kingdom of Sicily, 1266–1305. Cambridge University Press