ベアトリス・ド・ブラバン
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ベアトリス・ド・ブラバン Béatrice de Brabant | |
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出生 |
1225年 ブラバント公領、ルーヴェン |
死去 |
1288年11月11日 フランドル伯領、コルトレイク |
埋葬 | フランドル伯領、マルケット=レ=リール修道院 |
配偶者 | テューリンゲン方伯・対立ローマ王ハインリヒ・ラスペ |
フランドル伯ギヨーム2世 | |
家名 | ブラバント家 |
父親 | ブラバント公アンリ2世 |
母親 | マリア・フォン・ホーエンシュタウフェン |
ベアトリス・ド・ブラバン(フランス語:Béatrice de Brabant, 1225年 - 1288年11月11日)または ベアトリクス・フォン・ブラバント(ドイツ語:Beatrix von Brabant)は、テューリンゲン方伯・対立ローマ王ハインリヒ・ラスペ妃[1]、のちフランドル伯ギヨーム2世妃[2]。
生涯
[編集]ベアトリスはブラバント公アンリ2世とマリア・フォン・ホーエンシュタウフェンの間にルーヴェンで生まれた[3]。母マリアはローマ王フィリップの娘であった。ベアトリスにはアンリ3世や、後に夫バイエルン公ルートヴィヒ2世に処刑されるマリーなどの5人の姉弟がいた。
マリアは1241年3月10日、テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペと結婚した。ハインリヒ・ラスペは1246年にローマ王位を宣言した。ハインリヒ・ラスペにとってこの結婚は3度目であったが、最初の2人の妃と同様に、マリアとも子供が生まれなかった。1247年にハインリヒ・ラスペは子供がいないまま死去し、チューリンゲンは甥のマイセン辺境伯ハインリヒ3世が継承した。
同年11月に、マリアはフランドル伯ギヨーム2世と再婚した。しかしギヨーム2世は1251年6月6日に死去した。この結婚でも子供が生まれなかった。
マリアはコルトレイクにあるグロエニンク修道院の後援者であった。彼女はこの修道院に聖母の像を寄贈した。この像は、1285年にマリアが教皇ホノリウス4世から受け取ったと言われている。また、蝋燭も寄贈したが、これは同年にアラスの司教から入手した奇跡を起こすといわれていたアラスの蝋燭の断片から作られた蝋燭であった[4]。
脚注
[編集]- ^ Fried & Schieffer 2008, p. 566.
- ^ Vann 1993, p. 85.
- ^ Dunbabin 2011, p. xiv.
- ^ A. Possoz, Our Lady of Groeninghe, Tournai, Malot and Levasseur, 1859, p 45, p 64
参考文献
[編集]- Dunbabin, Jean (2011). The French in the Kingdom of Sicily, 1266–1305. Cambridge University Press
- (German) Deutsches Archiv fur Erforschung des Mittelalters. Bohlau Verlag GmbH & Cie, Koln Weimar Wien. (2008)
- Vann, Theresa M. (1993). Queens, Regents and Potentates. Academia Press