マティルド1世 (ヌヴェール女伯)
マティルド1世 Mathilde I | |
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ヌヴェール女伯 オセール女伯 トネール女伯 | |
在位 | 1192年 - 1257年 |
出生 |
1188年 |
死去 |
1257年7月29日 フランス王国、オセール伯領、クランジュ=シュル=ヨンヌ城 |
埋葬 | フランス王国、ノートルダム=デュ=レコンフォール・ド・サジー修道院 |
配偶者 | エルヴェ4世・ド・ドンジー |
フォレ伯ギーニュ4世 | |
子女 |
ギヨーム アニェス |
家名 | クルトネー家 |
父親 | ラテン皇帝ピエール2世・ド・クルトネー |
母親 | ヌヴェール女伯アニェス1世 |
マティルド1世(フランス語:Mathilde I, 1188年 - 1257年7月29日)、マティルド・ド・クルトネー(Mathilde de Courtenay)またはマオー・ド・クルトネー(Mahaut de Courtenay)は、ヌヴェール女伯、オセール女伯およびトネール女伯(在位:1192年 - 1257年)。ラテン皇帝ピエール2世・ド・クルトネーとヌヴェール女伯アニェス1世の一人娘。エルヴェ4世・ド・ドンジーと、その後フォレ伯ギーニュ4世と結婚した。
生涯
[編集]結婚
[編集]フランス王フィリップ2世の従兄弟ピエール2世・ド・クルトネーは、ヌヴェール女伯アニェス1世との結婚により、1184年にヌヴェール伯、オセール伯およびトネール伯となった。その4年後、2人の間に娘マティルドが生まれた[1]。
1198年、マティルドの父ピエール2世はジアン城の所有権を巡ってエルヴェ4世・ド・ドンジーと対立した。エルヴェ4世はコーヌ=クール=シュル=ロワールでピエール2世に勝利し、ピエール2世を捕らえた[2]。フィリップ2世の仲介により、両者は1199年に合意に達した。ピエール2世は解放されるために娘のマティルドをエルヴェ4世と結婚させ、ヌヴェール伯領を割譲することとなった。結婚に向けての合意は1199年10月、おそらく20日に締結された。それにより、ピエール2世の死後にオセール伯領とトネール伯領はエルヴェ4世の領地となることが合意された。
1209年、エルヴェ4世とマティルドはベラリ修道院を創建し、1211年にはノートルダム・ド・レポー修道院を創建した。また、1205年に行われた結婚が翌1212年にようやく教皇インノケンティウス3世により認められた。夫妻は宗教施設に多くの寄進を行った。
統治
[編集]父ピエール2世の死後、マティルドはオセール伯領およびトネール伯領を相続した[3]。第5回十字軍に参加していたエルヴェ4世はこの知らせを受けてすぐにヨーロッパに戻り、妻が継承した伯領を自らの支配下に置くことに成功した。2年後、マティルドとエルヴェ4世の娘アニェスはサン=ポル伯ギー2世・ド・シャティヨンと結婚した。
エルヴェ4世・ド・ドンジーは1223年1月22日にサン=テニャンで死去した[4]。毒殺と考えられている[4]。4年後、マティルドはフォレ伯ギーニュ4世と結婚した[5]。
マティルドは寛大であったことから非常に人気があり、1223年8月15日にドゥルイェ城においてオセールから派遣された代理人に対し特許状に署名した。この特許状はオセールの住民に自由と選挙権を与え、住民のコミューンの誕生を示すものであり、これは1188年にピエール2世によって承認されていたものであった。マティルドは1235年にシトー会の修道女のためにノートルダム=デュ=レコンフォール・ド・サジー修道院を創建し、1244年に寄進財産を増やした。
1257年、マティルドが住んでいたドゥルイェ城がレニー修道院の所有物となることが承認された。同年、マティルドはポン・シゾーにある水車小屋をサン・マルタン・ド・ヌヴェール修道院の修道士と100スーの使用料でやりとりした。
マティルドは1257年7月29日にクランジュ=シュル=ヨンヌ城で死去し[6]、ノートルダム=デュ=レコンフォール・ド・サジー修道院に埋葬された。曾孫のマティルド2世がヌヴェール、オセール、トネール女伯の位を継承した。
子女
[編集]マティルドとエルヴェ4世・ド・ドンジーの間に以下の子女が生まれた。
- ギヨーム(1207/14年没) - ベアトリス・ド・ヴィエノワと婚約
- アニェス(1205年 - 1225年) - 1217年にフランス王ルイ8世の長子フィリップと結婚したが[7]、フィリップは翌年に死去した。サン=ポル伯ギー2世(シャティヨン家)と再婚[8]、娘ヨランド・ド・シャティヨン[5]は、ブルボン領主アルシャンボー9世と結婚した[9]。
脚注
[編集]- ^ Berman 2018, p. 91.
- ^ Perry 2013, pp. 30–31.
- ^ Sot, Lobrichon & Depardon 2006, p. 25.
- ^ a b Kupfer 2003, p. 19.
- ^ a b Bouchard 1987, p. 342.
- ^ Robert Némo et Bernard Collette, Le château de Druyes, Yonne, 1989.
- ^ Evergates 2007, pp. 222, 350.
- ^ Evergates 2007, p. 222.
- ^ Berman 2018, p. 92.
参考文献
[編集]- Berman, Constance H. (2018). The White Nuns: Cistercian Abbeys for Women in Medieval France. University of Pennsylvania Press
- Bouchard, Constance Brittain (1987). Sword, Miter, and Cloister: Nobility and the Church in Burgundy, 980–1198. Cornell University Press
- Evergates, Theodore (2007). The Aristocracy in the County of Champagne, 1100–1300. University of Pennsylvania Press
- Kupfer, Marcia (2003). The Art of Healing: Painting for the Sick and the Sinner in a Medieval Town. Pennsylvania State University Press
- Perry, Guy (2013). John of Brienne: King of Jerusalem, Emperor of Constantinople, c. 1175–1237
- Sot, Michel; Lobrichon, Guy; Depardon, Marie-Hélène (2006). Les gestes des évêques d'Auxerre. 2. Belles lettres
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