コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

マティルド1世 (ヌヴェール女伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マティルド1世
Mathilde I
ヌヴェール女伯
オセール女伯
トネール女伯
在位 1192年 - 1257年

出生 1188年
死去 1257年7月29日
フランス王国、オセール伯領、クランジュ=シュル=ヨンヌ城
埋葬 フランス王国、ノートルダム=デュ=レコンフォール・ド・サジー修道院
配偶者 エルヴェ4世・ド・ドンジー
  フォレ伯ギーニュ4世
子女 ギヨーム
アニェス
家名 クルトネー家
父親 ラテン皇帝ピエール2世・ド・クルトネー
母親 ヌヴェール女伯アニェス1世
テンプレートを表示

マティルド1世フランス語:Mathilde I, 1188年 - 1257年7月29日)、マティルド・ド・クルトネー(Mathilde de Courtenay)またはマオー・ド・クルトネー(Mahaut de Courtenay)は、ヌヴェール女伯、オセール女伯およびトネール女伯(在位:1192年 - 1257年)。ラテン皇帝ピエール2世・ド・クルトネーとヌヴェール女伯アニェス1世の一人娘。エルヴェ4世・ド・ドンジーと、その後フォレ伯ギーニュ4世と結婚した。

生涯

[編集]

結婚

[編集]

フランス王フィリップ2世の従兄弟ピエール2世・ド・クルトネーは、ヌヴェール女伯アニェス1世との結婚により、1184年にヌヴェール伯、オセール伯およびトネール伯となった。その4年後、2人の間に娘マティルドが生まれた[1]

1198年、マティルドの父ピエール2世はジアン城の所有権を巡ってエルヴェ4世・ド・ドンジーと対立した。エルヴェ4世はコーヌ=クール=シュル=ロワールでピエール2世に勝利し、ピエール2世を捕らえた[2]。フィリップ2世の仲介により、両者は1199年に合意に達した。ピエール2世は解放されるために娘のマティルドをエルヴェ4世と結婚させ、ヌヴェール伯領を割譲することとなった。結婚に向けての合意は1199年10月、おそらく20日に締結された。それにより、ピエール2世の死後にオセール伯領とトネール伯領はエルヴェ4世の領地となることが合意された。

1209年、エルヴェ4世とマティルドはベラリ修道院を創建し、1211年にはノートルダム・ド・レポー修道院を創建した。また、1205年に行われた結婚が翌1212年にようやく教皇インノケンティウス3世により認められた。夫妻は宗教施設に多くの寄進を行った。

統治

[編集]

父ピエール2世の死後、マティルドはオセール伯領およびトネール伯領を相続した[3]第5回十字軍に参加していたエルヴェ4世はこの知らせを受けてすぐにヨーロッパに戻り、妻が継承した伯領を自らの支配下に置くことに成功した。2年後、マティルドとエルヴェ4世の娘アニェスはサン=ポル伯ギー2世・ド・シャティヨンと結婚した。

エルヴェ4世・ド・ドンジーは1223年1月22日にサン=テニャンで死去した[4]。毒殺と考えられている[4]。4年後、マティルドはフォレ伯ギーニュ4世と結婚した[5]

マティルドは寛大であったことから非常に人気があり、1223年8月15日にドゥルイェ城においてオセールから派遣された代理人に対し特許状に署名した。この特許状はオセールの住民に自由と選挙権を与え、住民のコミューンの誕生を示すものであり、これは1188年にピエール2世によって承認されていたものであった。マティルドは1235年にシトー会の修道女のためにノートルダム=デュ=レコンフォール・ド・サジー修道院を創建し、1244年に寄進財産を増やした。

1257年、マティルドが住んでいたドゥルイェ城がレニー修道院の所有物となることが承認された。同年、マティルドはポン・シゾーにある水車小屋をサン・マルタン・ド・ヌヴェール修道院の修道士と100スーの使用料でやりとりした。

マティルドは1257年7月29日にクランジュ=シュル=ヨンヌ城で死去し[6]、ノートルダム=デュ=レコンフォール・ド・サジー修道院に埋葬された。曾孫のマティルド2世がヌヴェール、オセール、トネール女伯の位を継承した。

子女

[編集]

マティルドとエルヴェ4世・ド・ドンジーの間に以下の子女が生まれた。

脚注

[編集]
  1. ^ Berman 2018, p. 91.
  2. ^ Perry 2013, pp. 30–31.
  3. ^ Sot, Lobrichon & Depardon 2006, p. 25.
  4. ^ a b Kupfer 2003, p. 19.
  5. ^ a b Bouchard 1987, p. 342.
  6. ^ Robert Némo et Bernard Collette, Le château de Druyes, Yonne, 1989.
  7. ^ Evergates 2007, pp. 222, 350.
  8. ^ Evergates 2007, p. 222.
  9. ^ Berman 2018, p. 92.

参考文献

[編集]
  • Berman, Constance H. (2018). The White Nuns: Cistercian Abbeys for Women in Medieval France. University of Pennsylvania Press 
  • Bouchard, Constance Brittain (1987). Sword, Miter, and Cloister: Nobility and the Church in Burgundy, 980–1198. Cornell University Press 
  • Evergates, Theodore (2007). The Aristocracy in the County of Champagne, 1100–1300. University of Pennsylvania Press 
  • Kupfer, Marcia (2003). The Art of Healing: Painting for the Sick and the Sinner in a Medieval Town. Pennsylvania State University Press 
  • Perry, Guy (2013). John of Brienne: King of Jerusalem, Emperor of Constantinople, c. 1175–1237 
  • Sot, Michel; Lobrichon, Guy; Depardon, Marie-Hélène (2006). Les gestes des évêques d'Auxerre. 2. Belles lettres 
先代
アニェス1世
ヌヴェール女伯
オセール女伯
1192年 - 1257年
次代
マティルド2世