ジョン・マギー
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ジョン・ギレスピー・マギー(John Gillespie Magee、1884年 – 1956年)はアメリカ合衆国の米国聖公会牧師[1]。日本軍による南京事件(南京虐殺)についての証言を東京裁判で行った。また事件の記録映像(マギーフィルム)は中国政府が世界の記憶へ申請し、2015年登録された[2]。
略歴
[編集]アメリカのペンシルベニア州ピッツバーグ出身。イェール大学で学んだ後、マサチューセッツ州の神学校に移っている。1912年から1940年まで中華民国で、米国聖公会伝道団の宣教師として活動し、南京下関地区で教会を主催してキリスト教布教と医療活動を行った。
日本軍による南京占領期間中は、南京国際赤十字委員会委員長・南京安全区国際委員会委員を務め、外国人の大邸宅を借用して難民を収容した。日本軍による南京事件について記録・証言をする一方で、日本人将兵の良心的な行動も評価して記録している[4]。
東京裁判でのマギー証言
[編集]マギーは極東国際軍事裁判では南京事件の証人として証言台に立ち、日本軍による殺人、強姦、略奪事件について、被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に証言を行った[5]。
民間人殺害についての証言
[編集]- 1937年12月14日、マギーの雇っていた15歳の料理人が、約100名の中国人と共に南京の城外に連行され、日本兵が殺し始めたが、料理人は縄を解いて穴のなかに隠れて逃げることができた[6]。
- ある晩、1000〜2000人の中国人の二列縦隊が手を縛られて連行されていた。「中国の兵隊が居るのを一人も見かけなかつたのでありまして、全部便衣を着て居つた」、中国人は「全部銃剣で突かれた」が、死んだふりをして生存することができたものが帰ってきた[6]。
- 12月16日、マギーが避難民収容所に行くと、日本軍が14名と1000名を拉致し、揚子江沿岸で機関銃によって殺害したと生き残った苦力から聞いた[6]。同じ日に、マギーの運転手の兄弟も拉致され、市内の広場に連れて行かれた[6]。
- 1938年1月5日、仏教徒の尼僧の家があった寺の後ろで25人の中国人が殺害された[7]。一番上の65歳の尼僧と10歳の見習い尼僧が日本兵に殺害された[7]。
- 1938年1月終り頃、南門内側で約五百人の中国人が殺されたと聞いた[7]。
目撃証言
[編集]伝聞以外の目撃証言については、ブルックス弁護人が「それでは只今のお話になった不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯を、あなたご自身いくらくらいご覧になりましたか」との反対尋問を行い、マギーは「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思いますが、ただわずか一人の事件だけは自分で目撃いたしました」と回答した[8]。その目撃によれば、1937年12月17日、マギーは家のバルコニーから中国人が一人殺されるのを目撃した。中国人に日本兵が誰何すると、中国人は逃げ去り、それを日本兵は追いかけて射殺した[6]。
一方、マギー牧師の日記には「私たちは本当は殺害現場を見ていません」と書かれている[9]。
強姦殺害についての証言
[編集]- ある日、婦人を強姦しようとした日本兵が、婦人の夫を殺害した。マギーは裏庭でその遺体を見た[10]。
- 現地の牧師に聞いたところでは、日本兵が80歳の牧師の母を外に連れ出し、着物をまくり上げろと命じると、自分はもう婆さんだからというと、射殺された[7]
- 新開路事件:1938年1月終り頃、新開路六番地の家に行くと13人の家族のうち2人の子供をのぞく者が殺されていた。生存者の少女一人は約8〜9歳で、日本兵が入つて来た時に背中を二度刺され、その傷は写真に撮った。遺族の話によれば、約三十名の日本兵がやってきて、回教徒の家人が戸を開けると即座に殺さし、後ろにいた男とその妻を殺した。日本兵は14〜16歳の少女を広場の横へ連れて行こうとし、少女を保護しようとした父方の祖父母を殺したあと、強姦した。女の膣は竹の棒で突かれた[11][7]。この少女が夏淑琴とされる[5][12]。また、広場に面している他の家では、母親が一歳の子とベッドの下に隠れていたが、日本兵はその女を強姦した後、女と赤ん坊も殺した[7]。遺体の膣には瓶が入れてあった[7]。ある少女の話では、頭から日本刀で斬られた[7]。この新開路での事件はマギーが行く6週間前に発生していたが、少女が強姦された机や殺された床の上には血が散乱していた[7]。遺体は14歳の少女、16歳の少女、老婆の娘である一歳の嬰児の母があった[7]。
- 1938年2月1日、日本兵が15歳の少女を監禁していると聞いたので、現場にいき、ドアを破って入ると、日本兵二人と少女がいた。一人は逃げ、もう一人は泥酔していた。少女は南京から約60マイルの浦口区の者で、少女の父によれば少女は5回強姦された[7]。少女の話によれば、日本兵隊が浦口に来ると、少女の兄弟は兵隊であると日本兵がいうので違うといった。その兄弟の妻と姉が暴行を拒んだので銃剣で殺された[7]。父母は兵隊の前に哀願したが、銃剣で殺された。少女は気絶し、どこかの営舎に連れて行かれ2ヶ月間監禁された[7]。最初の1ヶ月は毎日暴行された[7]。その後性病がひどくなったので、兵士は暴行をやめた。ある日泣いていると日本の一士官がやってきて尋ねられたので、事情を話すと、同情してくれて、約60マイルの南京金陵大学へ連れて行ってくれた[7]。
強姦について
[編集]- ある日、三人の日本兵に自動車に拉致され、郊外で強姦され、自宅に送り返される途中で、また日本兵に声を掛けられたという女性を助けた[10]。
- 12月18日、スパーリング委員と住宅街に行くと、日本兵に強姦された婦人がおり、家にまだいるというので、行くと、日本兵と中国人女性2人が部屋にいた[10]。
- 12月20日、強姦された10、11歳の少女を病院に連れて行った。三人の日本兵が二階から民家に侵入しようとしていたり、一人の日本兵が強姦しているのを見たので、その兵を道に連れ出した。強姦されようとしている女性を何人も助けることができた[10]。
- 1938年1月1日、30歳くらいの知り合いの婦人と少女が強姦された[10]。
- 日本兵に17〜18回強姦されたという寡婦と会った。その寡婦の77歳の母も日本兵に強姦された[7]。
目撃証言
[編集]ブルックス弁護人は「強姦の現行犯をご覧になったことがありますか。もしあるとすれば、それはいくつくらいでありますか」との反対尋問も行い、マギーは「私が見ましたのは、一人の男が実際に強姦行為をしていたのであります。もう一つの二人の男というのは、女の子と寝台に横たわっていたのでありますが、その父親のいうには、私がその所に行きますよりすでに前に強姦していたということであります」と答えている[13][14]。
強盗について
[編集]また強盗については「アイス・ボックス(冷蔵庫)を盗んで居つたのを見ましたことは憶えております。」「私の隣に済んで居る中国人の婦人が参りまして、80ドル盗まれたと言ひましたので、直ぐに 其処に参りましたが、其の盗んだ犯人と覚しき者から80ドルを取返すことは出来ませぬでした。」「私がさう云ふことを見ないと云ふのは理由があるのであります。日本の兵隊が家屋に侵入して来た場合に、私達が其処に行きますと、直ぐ日本の兵隊達は逃げた」ので現場を見ることができなかったと証言している[13]。
- 日本兵は時計、万年筆、お金、着物、食糧など何でも人民から取上げた[7]。南京占領後数日して、寝具を日本兵が取らうとしたので、それを拒んだ婦人が頸を銃剣で刺されたというのでマギーが治療した。日本兵は、日本総領事館やアメリカ大使館の通告に考慮を払わなかった。また、日本兵隊は中山陵方面へトラック一杯に冷蔵庫等を積んで行くのを見た[7]。
マギー証言の評価をめぐる論争
[編集]- 南京攻略戦時に福知山連隊(歩兵第20連隊)大隊長を務め南京とその周辺の警備に当たっていた森王琢は「検事側の証人としてマギーは二日間にわたって詳細に証言したが、ブルックという弁護士が反対質問で問いつめると二日にわたって証言したことは全部ウソで結局窃盗と婦女暴行が各一件だけあることが判明し、法廷で笑い物になった」と述べている[15]。
- 田中正明はマギーが直接目撃したのが不審者の殺害、強姦、窃盗の3件だけで、あとはすべて伝聞、噂話、憶測によると言っている[16]。
- 渡部昇一によればマギーの目撃した殺害事件とは、南京市内を警備していた日本兵が、中国人に何者か質問をすると逃走したので射殺したというもので、「はたして、これのどこが虐殺だろうか」という[17]。また渡部は「松井石根被告の弁護人ブルックス氏は、大虐殺神話のもととなった同国人のマギー牧師を反対訊問で問いつめ、実際に日本兵により殺害されたシナ人はたった一人しか実際に見たことがないと白状させたのである。元来が国際政治裁判だった東京裁判で、松井被告は死刑になったけれども、ブルックス弁護人の反対訊問のおかげでわれわれは大虐殺神話の実態をうかがうことが今日でもできるのだ」という[18]。また渡部は「この大虐殺のあらゆる噂や文献の起こりが、たった一つのところに収斂していることが証明された。それは一人のアメリカ人牧師マギーのデマであり、さらに、そのデマを遡って調査してみても、事実らしいものはどこにも見つからなかった。要するに、日本人は一人の無責任な外人のデマによって、何十万人ものシナ人を集団虐殺したという烙印を押されてしまったわけである」と主張している[19]。
- 藤岡信勝もマギー証言はほとんど伝聞に基づいたものとする[20]。
これに対して、以下の反論がある。
- 洞富雄は「“唯僅か一人の事件だけは自分で目撃致しました”と、正直に陳述しているだけのことである」「もし、マギー師が偽証しようと思えば、5件でも10件でも目撃したと言えたはず」と反論[21]。
- 立花隆は渡部昇一が他の証拠を考慮せずに、マギー証言が南京大虐殺の唯一の証拠であったかのように思わせる議論は、「渡部氏のいつものイカサマ論法」と批判した[22]。
- 藤原彰は「安全区で、もっぱら怪我人や強姦の被害者の救護活動をしていたマギーが殺害現場に立ち会わなかったのは当然で、マギー証言の意義は夥しい数の被害者と接していたことにこそあるのだ。(中略)それらを無視して、殺害現場を見たのは一人だけだという部分のみが、何回も持ち出されるのである」[23]と述べている。
- 渡辺春己は「否定派はマギー証言の断片だけを切り取り、殺害、強姦の瞬間を目撃しなければ、死体があっても、被害女性がいても、「伝聞」であり、事実として認定できないという暴論を平然と主張する」[24]と反論している。
- 戸谷由麻 東京裁判のとき、マギー証言に対して被告の弁護人のブルックスが「尋問技術を駆使してもマギーの証言の一貫性と真実性を崩すことはできなかった。そのことはブルックス自身も法廷で実感し、またウェッブ裁判長にも次第に明白になっていった。(中略)ブルックスはあらためて「この証人は公平を務めていると信じます」と答え、ニ、三追加の質問をしたあと裁判長の勧告に従い反対尋問を終了したのだった。」[25]
マギーフィルム
[編集]マギー牧師が日本軍占領期間中の中華民国の南京で、南京事件の犠牲者・被害者を撮影したと解説する8リールの16ミリフィルム(通称「マギーフィルム」)がある。その多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、字幕の説明[26]によれば、日本軍の暴行を受けた幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っている。ただし、虐殺場面とされる映像については字幕の説明のみで肝心の映像は写っていないため、写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍の手によるものなのか、中華民国軍の敗残兵の手によるものかなどが分からず、記録映像として疑問を呈する声もある[27]。
このフィルムは、のちにジョージ・アシュモア・フィッチらが1938年1月に上海へ持ち出して4セットのコピーを作製し、それらのうち1セットは南京ドイツ大使館にいたナチスドイツ外交官のゲオルク・ローゼン博士によってドイツ外務省に送られた。同年4月に渡米したフィッチはロサンゼルスを皮切りに全米各地で映写会を開いて日本軍の蛮行を訴えることに使用し、渡米の主目的であるワシントンでは国務次官のスタンレイ・ホーンベックをはじめ下院の外交委員会、戦時情報局などの要人、新聞記者などの報道関係者にもフィルムを見せている[28]。このフィルムは、1938年5月16日の「LIFE」誌においても紹介された。
しかし、極東国際軍事裁判では本人マギー牧師が当時の日本軍の残虐行為について証言を行ったのみで、フィルム自体は証拠として提出されることはなかった[27]。國民新聞によれば、マギーフィルムは、大半が戦争の一場面として病院で中国人が治療を受けている姿であり、「大虐殺」の証拠とはいえず、ローゼン報告も日本軍が南京入城する一週間前に上海に脱出していたローゼン政務書記官がまとめたものであり、同書記官の証言は目撃証言ではなく根拠をもたない、と主張している[27]。
オリジナルフィルムは長年行方不明となり、いわゆる「幻のマギーフィルム」と言われていたが、1991年、マギーの次男デヴィット・マギーの自宅から再発見された[29]。
日記
[編集]- 滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』(三交社、1997)
関連作品
[編集]- 「MBSナウスペシャル「フィルムは見ていた 検証南京大虐殺」1991年10月6日放映、毎日放送
- ナンシー・トン「天皇の名のもとに 南京大虐殺の真実」(ビデオ)
- 映画『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』(2009年、ドイツ・フランス・中国合作)
脚注
[編集]- ^ a b 田中正明, What really happened in Nanking - The refutation of a common myth, 世界出版, page 123, ISBN 4916079078
- ^ 毎日新聞2015.10.11
- ^ 「南京は微笑む 城内点描」『朝日新聞』1937年12月25日付朝刊、3面
- ^ 笠原十九司『南京難民区の百日』岩波書店、1995年[要ページ番号]
- ^ a b 洞富雄編『南京大残虐事件資料集1』青木書店1985,p86-110
- ^ a b c d e 『南京大残虐事件資料集1』青木書店1985,p88-89
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『南京大残虐事件資料集1』青木書店1985,p94-99
- ^ 『南京大残虐事件資料集1』青木書店1985,p103
- ^ 滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』(三交社、1997)
- ^ a b c d e 『南京大残虐事件資料集1』青木書店1985,p91-93
- ^ 「先程申しました案内役に立つた其の祖母は、此の部屋に行つて、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。是等の女は強姦され且つ殺された。其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居た。それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居た。其の男の子は女の子の着物を着て居つた為に、竹で突き刺された。」
- ^ 「マギー牧師の解説書」『ドイツ外交官の見た南京事件』所収、大月書店、2001年、資料51[要ページ番号]
- ^ a b 『南京大残虐事件資料集1』青木書店1985,p103-104
- ^ 『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房、1999年[要ページ番号]
- ^ 木暮山人参議院議員の発言による“1994年10月27日 参議院文教委員会(第131回国会 文教委員会 第2号)”. 参議院 (1994年10月27日). 2015年10月21日閲覧。)。
- ^ 田中正明『“南京虐殺”の虚構』日本教文社、1984年P314。『南京事件の総括』展転社、2001年、P32
- ^ 渡部昇一「かくて昭和史は甦る」クレスト1995,p292
- ^ 渡部昇一「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七ヶ条」『諸君!』1984年3月号[要ページ番号]
- ^ 『歴史の読み方』祥伝社,1979年,p136
- ^ 「近現代史教育の改革」明治図書、1996,p207
- ^ 洞富雄『南京大虐殺の証明』朝日新聞社、1986年、P23、ISBN 9784022554512
- ^ 『朝日ジャーナル』1985年1月4・11日合併号
- ^ 藤原彰「「東京裁判によるデッチ上げ」説こそがデッチ上げ」=『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房、1999年所収、P20
- ^ 渡辺春己「証拠をご都合主義的に利用しても正当な事実認定はできない」=『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房、1999年所収、ISBN 9784760140947 p.194
- ^ 「現代歴史学と南京事件」所収 P139
- ^ フィルムの解説文はドイツ外交文書『ローゼン報告』の中で読むことができる。邦訳『ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店、2001年[要ページ番号]
- ^ a b c 『國民新聞』1991年7月25日、1-2面。
- ^ 笠原十九司『アジアの中の日本軍』大月書店、1994年[要ページ番号]
- ^ 香港中文大学による。About Reverend Magee's Documentary
参考文献
[編集]- 「南京は微笑む 城内点描」『朝日新聞』1937年12月25日付朝刊、3面
- 『國民新聞』1991年7月25日、1-2面
- 田中正明『“南京虐殺”の虚構』日本教文社、1984年
- 田中正明『What really happened in Nanking - The refutation of a common myth』世界出版、ISBN 4916079078
- 渡部昇一「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七ヶ条」『諸君!』1984年3月号
- 洞富雄『南京大虐殺の証明』朝日新聞社、1986年、ISBN 978-4022554512
- 笠原十九司『アジアの中の日本軍』大月書店、1994年
- 笠原十九司『南京難民区の百日―虐殺を見た外国人』岩波書店、1995年(岩波現代文庫、2005)
- 南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房、1999年 ISBN 978-4760117840
- 石田勇治・笠原十九司・吉田裕『ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店、2001年、ISBN 978-4272520640