マイケル・ド・ラ・ポール (初代サフォーク伯)
マイケル・ド・ラ・ポール Michael de la Pole | |
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初代サフォーク伯 | |
ド・ラ・ポール家の紋章 | |
在位 | 1385年 - 1389年 |
出生 |
1330年頃 |
死去 |
1389年9月5日 フランス王国、パリ |
配偶者 | キャサリン・ウィングフィールド |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ド・ラ・ポール家 |
父親 | ウィリアム・ド・ラ・ポール |
母親 | キャサリン・ノリッジ |
初代サフォーク伯マイケル・ド・ラ・ポール(Michael de la Pole, 1st Earl of Suffolk, 1330年頃 - 1389年9月5日)は、イングランドの貴族、政治家。イングランド王リチャード2世に重用されたが、周囲の反感を買い失脚した。
生涯
[編集]イングランド北東キングストン・アポン・ハルの羊毛輸出商人ウィリアム・ド・ラ・ポールの子として生まれた。父がエドワード3世に軍資金を融通したことでド・ラ・ポール家は宮廷に入り、マイケルはエドワード3世の長男エドワード黒太子に従軍して百年戦争でフランスを転戦した。帰国して黒太子の弟であるランカスター公ジョン・オブ・ゴーントとも交流を深め、1377年に黒太子の息子リチャード2世が即位すると側近として重用された[1]。
リチャード2世からは厚遇され、1383年に行ったフランドル遠征に反対して和平を主張、同年に大法官に任命され、1385年にはサフォーク伯に叙された。しかし、商人出身のド・ラ・ポール家が爵位を得たことは貴族達の嫉妬と反感を買い、和平案もリチャード2世は賛成したが他の人々に反対され窮地に陥った。翌1386年の議会で反対派の国王への要求により大法官を解任された上、弾劾を受け財産没収・投獄に追いやられた。リチャード2世によりすぐに赦免されたが、これは国王に対する貴族の一層の反発を招いた[2]。
1387年、側近政治に反対する訴追派貴族がサフォーク伯とアイルランド公兼オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーらリチャード2世の側近集団を告発することを計画、身の危険を感じたサフォーク伯はフランスへ亡命した。翌1388年の非情議会で欠席のまま死刑判決が下り爵位も没収、1389年にイングランドへ戻れないままパリで亡くなった。息子のマイケル・ド・ラ・ポールは後にヘンリー4世から爵位を与えられド・ラ・ポール家は復帰した[3]。
子女
[編集]サー・ジョン・ウィングフィールドの娘キャサリンと結婚、8人の子を儲けた。
- マイケル(1361年 - 1415年) - 第2代サフォーク伯
- トマス(1363年 - 1415年)
- ウィリアム(1365年 - ?)
- リチャード(1367年頃 - 1402年)
- ジョン(1369年頃 - 1415年)
- アン(1373年頃 - ?) - ロバート・ソアリーと結婚
- エリザベス(1377年頃 - ?)
- マーガレット(1386年頃 - ?)
脚注
[編集]- ^ 青山、P381、松村、P587、ロイル、P50。
- ^ 青山、P381 - P383、松村、P587 - P588、キング、P303 - P305、ロイル、P53 - P54。
- ^ 青山、P383 - P385、松村、P588、キング、P305 - P308、ロイル、P55 - P58、P418 - P419。
参考文献
[編集]- 青山吉信編『世界歴史大系 イギリス史1 -先史~中世-』山川出版社、1991年。
- 松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。
- エドマンド・キング著、吉武憲司監訳『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、2006年。
- トレヴァー・ロイル著、陶山昇平訳『薔薇戦争新史』彩流社、2014年。
公職 | ||
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先代 ロバート・ブライブルーク |
大法官 1383年 - 1386年 |
次代 トマス・アランデル |
イングランドの爵位 | ||
先代 新設 |
サフォーク伯 1385年 - 1389年 |
次代 マイケル・ド・ラ・ポール |