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アンドルー・ボナー・ロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボナーローから転送)
アンドルー・ボナー・ロー
Andrew Bonar Law
生年月日 1858年9月16日
出生地 ニューブランズウィック州レクストン英語版
没年月日 (1923-10-30) 1923年10月30日(65歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスロンドン
出身校 グラスゴー高等学校英語版
所属政党 保守党
称号 枢密顧問官 (PC)
配偶者 アニー・ピトケアン・ロブレイ
親族 初代コールレーン男爵英語版(四男)
サイン

在任期間 1922年10月23日 - 1923年5月20日[1]
国王 ジョージ5世

内閣 アスキス挙国一致内閣
在任期間 1915年5月27日 - 1916年12月5日[2]

内閣 ロイド・ジョージ挙国一致内閣
在任期間 1916年12月10日 - 1919年1月10日[3]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 グラスゴー・ブラックフライアーズ・アンド・ハッチンソンタウン選挙区英語版
ダルウィック選挙区英語版
ブートル選挙区英語版
グラスゴー・セントラル選挙区英語版
在任期間 1900年10月1日 - 1906年1月12日
1906年5月15日 - 1910年12月3日
1911年3月27日 - 1918年12月14日
1918年12月14日 - 1923年10月30日[4]
テンプレートを表示

アンドルー・ボナー・ロー閣下: Rt. Hon. Andrew Bonar Law, PC1858年9月16日1923年10月30日)は、イギリス政治家

1911年アーサー・バルフォア保守党党首を退任した後、代わって党首となった。第一次世界大戦中に成立した挙国一致内閣で閣僚職を歴任。戦後の1922年に保守党と自由党の大連立が解消されるとロイド・ジョージに代わって首相に就任したが、健康状態が芳しくなく、その翌年には辞職。スタンリー・ボールドウィンが代わって首相・保守党党首となった。

経歴

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前半生

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1858年9月16日、カナダニューブランズウィック州レクストン英語版[5]ジェームズ・ロー(James Law)とその妻イライザ・ロー(Eliza Law、旧姓キッドストン(Kidston)、ウィリアム・キッドストンの娘)の息子として生まれる[6]。父ジェームズは北アイルランドアルスター長老派教会の牧師だった[7][8]

グラスゴー高等学校英語版を卒業後、グラスゴーの鉄鋼市場の仲買業者となる。保守党の社交界に出席するようになったが、社交界にあって社交活動に無頓着で禁酒主義者であったことが人々の注目を集め、保守党指導者としての道を開いたという[7]

政界へ

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1905年3月2日の『バニティ・フェア』誌に描かれたボナー・ロー

1900年にグラスゴー・ブラックフライアーズ・アンド・ハッチンソンタウン選挙区英語版から選出されて保守党の庶民院議員となる(1906年からダルウィック選挙区英語版、1911年からブートル選挙区英語版、1918年からはグラスゴー・セントラル選挙区英語版から選出された)[4]

1902年から1905年にかけてアーサー・バルフォア内閣の商務庁政務次官英語版を務めた[4]。ボナー・ローはジョセフ・チェンバレンの提唱する関税改革論(保護貿易論)の熱心な支持者だった[7][9]

1905年に自由党が政権を獲得し、保守党は野党となった。1909年に自由党政権の財務大臣ロイド・ジョージ人民予算英語版案を提出した際にはボナー・ローはこれを「社会主義予算」として厳しく糾弾し、その反対運動を主導した[10]

保守党庶民院院内総務に就任

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1911年11月、保守党党首英語版保守党庶民院院内総務英語版バルフォアが議会法可決などで高まっていた党内の不満を抑えるため役職を辞した。後任の党首は決まっておらず、ウォルター・ロング英語版オースティン・チェンバレンがその座をめぐって争い、党所属庶民院議員による投票が行われることになったが、結局この二人は党の分裂を恐れて共に投票から降りたため、二人に比べて影響力の劣るボナー・ローが満場一致で党庶民院院内総務に選出される事態となった[11][12][13]。ただこの時点では党全体の党首ではなく、貴族院保守党は第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスによって指導されていた[14]

1912年4月に提出されたアイルランド自治法案において、アルスターがアイルランド自治に含まれることに強く反対した[7][8]。同年7月のブレナム宮殿での演説では「アルスターはどこまでも抵抗するだろうが、私はそれにいかなる援助も惜しまない」と述べ、アルスター義勇軍の武力抵抗運動を支持することを公然と表明している[15][16]。この法案は貴族院で2度否決されたが、1914年に三たび庶民院で可決されると、1911年議会法に基づき貴族院の意向にかかわらず法案が成立される見通しとなった[17]

ボナー・ロー率いる保守党はアルスター抵抗運動を支持し続け、内乱の危機を煽ることで自由党政府に圧力をかけようとした[18]。アイルランド自治を争点とする総選挙に持ち込めば勝算がある、という算段であった[18]。自由党政権の首相アスキスは強硬な対抗手段を取らず、ボナー・ローとの交渉を試みたが、妥協にはいたらなかった[19]。もっとも、アスキスも総選挙に応じず、保守党内でもオースティン・チェンバレンF・E・スミス英語版らが反発した[20]。しかし1914年7月の第一次世界大戦の開戦でアイルランド自治法案を棚上げすることが自由党政府とボナー・ローの間で取り決められたことで、事態は沈静化した[19](アイルランド自治法自体は1914年9月に成立した[20])。

挙国一致内閣の閣僚

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大戦の勃発のため、アスキス首相の求めに応じて戦時中は政党間論争を挑まないことを決定した。ただしこの段階ではまだ政府と保守党の連合が成ったわけではなく、あくまで休戦という消極的な関係に留まった。保守党平議員は自党の現状を「政治的軟禁状態」と考え、ボナー・ローの誓約に反発した。自由党政府の様々な失策の影響で1915年5月にその不満は爆発した。限界を感じたボナー・ローはアスキス首相と交渉して自由党と保守党の大連立の挙国一致内閣を成立させた[21]

挙国一致内閣の主導権は自由党が握っており、保守党はそれほど良い閣僚ポストの配分を受けられなかった。党首ボナー・ローも植民地大臣として入閣したに留まった[22]

その後徴兵制導入賛成でボナー・ローら保守党と自由党のロイド・ジョージの距離が縮まった。1916年12月にアスキスとロイド・ジョージが決裂するとロイド・ジョージを支持し、そのためにアスキスは総辞職することになった[23]。1916年12月5日に国王ジョージ5世より組閣の大命を受けたが、アスキスとロイド・ジョージの支持が必要である旨奉答した。しかしアスキスはボナー・ローへの協力もロイド・ジョージへの協力も拒否していたため、結局大命を拝辞することになり、12月7日にロイド・ジョージが組閣の大命を受けることになった[24]

ロイド・ジョージ内閣は保守党との大連立を維持しつつ、自由党アスキス派が離反した内閣となった。そのため保守党が優位な内閣となった。ボナー・ローは財務大臣庶民院院内総務として入閣し、また戦時内閣を構成する5人の閣僚の一人となった[25][26]

戦後の1918年12月14日に行われた解散総選挙は二大政党の枠組みではなく政府(ロイド・ジョージとボナー・ロー)が出した推薦状の有無で争うという異例の選挙となった(クーポン選挙[27]

1919年には財務大臣から王璽尚書に転じる(庶民院院内総務には在職)[4]。1921年3月には病気のため、政府役職・党役職を共に辞した[28]

短期間の首相在職

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1922年のボナー・ロー

ボナー・ローの後任の保守党党首にはオースティン・チェンバレンが就任した。彼は保守党内で大連立解消論が高まる中で挙国一致内閣の維持を主張し続けた。しかし解消機運を抑えきれず、1922年10月19日にはカールトン・クラブでスタンリー・ボールドウィンが提案した議案について保守党議員の採決で大連立解消が決議されるに至った。この決議はボナー・ローの大連立反対演説に影響を受けていた。これによりロイド・ジョージとチェンバレンはそろって辞職に追いやられた[29][30]

代わってボナー・ローが保守党党首に選出された。1922年10月23日午後5時30分には国王ジョージ5世より組閣の大命を受けた[31]。内閣成立直後に解散総選挙を行って安定多数を確保した[32]。しかし有力保守党議員の多くがチェンバレンに従っていたため、あまり強力な内閣は作れなかった[33]

首相在任中、ボナー・ローの体調は悪化を続け、1923年4月末には医師の勧めで航海の旅に出た(この間はカーゾン卿を首相代理、スタンリー・ボールドウィンを庶民院院内総務とした)。しかし帰国後も体調は回復しなかった[34]。1923年5月に咽頭癌との診断を受けたため[33]、5月20日に首相職を辞することになった[35]。在職わずか7ヶ月の首相であった[33]

退任から間もない1923年10月30日にロンドン喉癌のために死去した[5]

栄典

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ボナー・ローの肖像画(ジェイムズ・ガスリー画)

家族

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1891年3月24日にアニー・ピトケアン・ロブレイ(Annie Pitcairn Robley、ハリントン・ロブレイの娘)と結婚し、彼女との間に以下の7子を儲けた[37]

出典

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  1. ^ 秦 2001, p. 511.
  2. ^ 秦 2001, p. 513.
  3. ^ 秦 2001, p. 512.
  4. ^ a b c d UK Parliament. “Mr Bonar Law” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年3月27日閲覧。
  5. ^ a b "Andrew Bonar Law". gov.uk (英語). 2020年6月3日閲覧
  6. ^ Buckle 1922, p. 731.
  7. ^ a b c d ブレイク 1979, p. 231.
  8. ^ a b 坂井 1967, p. 497.
  9. ^ 中村 1978, p. 65.
  10. ^ 坂井 1967, pp. 419, 424–425.
  11. ^ ブレイク 1979, pp. 229–231.
  12. ^ タックマン 1990, pp. 465–467.
  13. ^ マッケンジー 1965, pp. 35–39.
  14. ^ マッケンジー 1965, pp. 39–40.
  15. ^ 坂井 1967, p. 498.
  16. ^ 中村 1978, p. 76.
  17. ^ 小関 2006, p. 283.
  18. ^ a b 小関 2006, pp. 285–286.
  19. ^ a b 坂井 1967, pp. 497–501, 505, 513.
  20. ^ a b 小関 2006, p. 286.
  21. ^ バトラー 1980, pp. 57–60.
  22. ^ バトラー 1980, p. 60.
  23. ^ バトラー 1980, pp. 60–63.
  24. ^ 中村 1978, pp. 187–196.
  25. ^ バトラー 1980, p. 63.
  26. ^ 村岡 & 木畑 1991, p. 279.
  27. ^ 村岡 & 木畑 1991, p. 281.
  28. ^ マッケンジー 1965, p. 40.
  29. ^ マッケンジー 1965, p. 42.
  30. ^ ブレイク 1979, pp. 239–242.
  31. ^ マッケンジー 1965, p. 43.
  32. ^ マッケンジー 1965, p. 45.
  33. ^ a b c ブレイク 1979, p. 247.
  34. ^ マッケンジー 1965, pp. 45–47.
  35. ^ マッケンジー 1965, p. 47.
  36. ^ "No. 28511". The London Gazette (英語). 7 July 1911. p. 5025.
  37. ^ "Public Service – Andrew Bonar Law". Heroes Centre (英語). 2020年6月3日閲覧

参考文献

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外部リンク

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公職
先代
第2代ダドリー伯爵英語版
イギリスの旗 商務庁政務次官英語版
1902年 – 1905年
次代
ハドソン・ケアリー英語版
先代
ルイス・ハーコート英語版
イギリスの旗 植民地大臣
1915年 – 1916年
次代
ウォルター・ロング英語版
先代
レジナルド・マッケンナ
イギリスの旗 財務大臣
1916年 – 1919年
次代
オースティン・チェンバレン
先代
ハーバート・ヘンリー・アスキス
イギリスの旗 庶民院院内総務
1916年 – 1921年
次代
オースティン・チェンバレン
先代
第27代クロフォード伯爵英語版
イギリスの旗 王璽尚書
1919年 – 1921年
先代
デビッド・ロイド・ジョージ
イギリスの旗 首相
1922年10月23日 – 1923年5月22日
次代
スタンリー・ボールドウィン
先代
オースティン・チェンバレン
イギリスの旗 庶民院院内総務
1922年 – 1923年
党職
先代
アーサー・バルフォア
保守党党首英語版
1911年 – 1921年
1916年まで党貴族院院内総務ランズダウン侯爵と共同で
次代
オースティン・チェンバレン
初代カーゾン伯爵
保守党庶民院院内総務英語版
1911年 – 1921年
次代
オースティン・チェンバレン
先代
オースティン・チェンバレン
初代カーゾン侯爵
保守党党首英語版
1922年 – 1923年
次代
スタンリー・ボールドウィン
学職
先代
レイモン・ポアンカレ
グラスゴー大学学長英語版
1919年 – 1922年
次代
初代バーケンヘッド伯爵英語版