ボゾルグ・アラヴィー
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このページ名「ボゾルグ・アラヴィー」は暫定的なものです。(2013年2月) |
ボゾルグ・アラヴィー(ペルシア語:بزرگ علوی、英語:Bozorg Alavi、1904年2月2日 - 1997年2月18日)は、イランテヘラン出身の小説家、政治活動家。
イラン共産党創立者の一人で、フンボルト大学ベルリンの教授を務めた。
生涯
[編集]1904年2月2日、イランのテヘランに商人の父[1]、アボル・ハサン・アラヴィー(Abol Hassan Alavi)の元に6人兄弟のうち3番目の子として生まれる。
1922年に兄のモルテザ(Mortezā)と共にドイツのベルリンに留学し[2][1]、1927年にイランへ帰国した。
1934年、短編集『トランク(Chamedan)』を著す。その後はマルクス主義を唱え、左翼活動を行ったため1937年にアラヴィーを含む53人の同志(en:The Fifty-Three)と共に4年後の1941年まで投獄された。なお、アラヴィーは投獄中の1941年に『牢獄のちり紙(Varaq Pareh'ha-ye Zendan)』を著した。
釈放後はイラン共産党[3]の結成に協力。また1942年に投獄中の記録『53人(Panjah-o Seh Nafar)』を著す。
第二次世界大戦後は東ドイツに渡り、フンボルト大学ベルリンで文学の教授を務めた。
1952年、長編小説『彼女の眼(Chashmhayash』を著し、翌年の1953年には短編集『Nameh' ha va Dastan'ha-ye diga』を著した。
パフラヴィー朝時代はアラヴィーのほとんどの作品は発売禁止[2]であったが、イラン革命が勃発し1979年に解禁された。
1997年2月18日にドイツのベルリンで亡くなる。
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脚注
[編集]- ^ a b 黒柳恒男. “アラビー”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年6月2日閲覧。。
- ^ a b ボゾルグ・アラヴィーとは - コトバンク、2013年2月10日閲覧。
- ^ トゥーデ党とも。
参考文献
[編集]- 高津春繁、手塚富雄、西脇順三郎、久松潜一 著、相賀徹夫 編『万有百科大事典 1 文学』(初版)小学館〈日本大百科全書〉(原著1973-8-10)。
- “ボゾルグ・アラビーとは”. コトバンク. 2013年2月10日閲覧。
- 黒柳恒男. “アラビー”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年6月2日閲覧。。
関連項目
[編集]- イラン立憲革命
- サーデグ・ヘダーヤト - イランの小説家、翻訳家でアラヴィーの友人。