ボギスラフ14世 (ポメラニア公)
ボギスラフ14世 Bogislaw XIV. | |
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ポメラニア公 | |
在位 | 1606年 - 1637年 |
出生 |
1580年3月31日 神聖ローマ帝国 ポメラニア公領、バルト |
死去 |
1637年3月10日(56歳没) 神聖ローマ帝国 ポメラニア公領、シュチェチン[1] |
埋葬 |
1654年5月25日 神聖ローマ帝国 ポメラニア公領、シュチェチン、聖オットー教会 |
配偶者 | エリーザベト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク |
家名 | グリフ家 |
父親 | ポメラニア公ボギスラフ13世 |
母親 | クララ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク |
ボギスラフ14世(ドイツ語:Bogislaw XIV., 1580年3月31日 - 1637年3月10日)またはボグスワフ14世(ポーランド語:Bogusław XIV)は、リューゲンヴァルデ(ダルウォボ)公(在位:1606年 - 1621年、1615年まで弟ゲオルク2世と共治)、ブコヴォ公(在位:1617年 - 1621年)、シュテッティン公(在位:1620年 - 1637年)、ヴォルガスト公(在位:1625年 - 1637年)、カミエン監督(在位:1622年 - 1637年)。
生涯
[編集]ボギスラフ14世はポメラニア公ボギスラフ13世とクララ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの間に第6子、三男として生まれた[2]。幼い頃から父親により統治者として育てられた。ポメラニア議会に参加し、領地の法律について学んだ。1606年にドイツ、オランダ、イングランド、スコットランド、フランス、イタリアを旅行した[3]。1606年に父ボギスラフ13世が死去すると、当初は弟のゲオルク2世とともに、1615年からは独立してリューゲンヴァルデ公領を統治した[4]。その1年前の1614年10月27日にゾンダーブルクで結婚契約が結ばれ、およそ4か月後の1615年2月19日にリューゲンヴァルデにおいて、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公ハンスとエリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲンの娘エリーザベトと結婚した[5]。1620年11月28日に兄フランツが嗣子なく亡くなった後、ボギスラフ14世はシュテッティン公領の実権を掌握し、1621年にリューゲンヴァルデ、ブコヴォ、カミエンを唯一生き残った弟ウルリヒに与えた[3][4]。また、1620年代にクロイ公であった息子のエルネスト・ボジスローとともにポメラニアに戻った妹のアンナに1622年にスウプスク近郊のスモウジノ村を、その1年後にはスウプスクの居城を、1625年にはロヴォコウ山の周囲にある森林を与えた[6]。弟ウルリヒの死後、1623年6月にカミエン監督となり、同時にヴォルガスト公フィリップ・ユリウスを補佐官に任命した。1625年にフィリップ・ユリウスが亡くなった後、ボギスラフ14世はヴォルガスト公領も自らの領土とし、それ以降西ポメラニア全土を統治した[2]。
ボギスラフ14世の治世は三十年戦争の時期と一致しており、ポメラニアに駐留していた軍隊が領地を荒廃させ、非常に困難な時期であった(シュテッティンのあるポメラニアはスウェーデン軍にとって便利な地域であり作戦基地であった)。ボギスラフ14世は最善を尽くしたにもかかわらず、公国の中立を維持することができなかった。1627年、ボギスラフ14世はアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン指揮下の帝国軍の受け入れに同意することを余儀なくされた。1630年代、公国内は深刻な状況に陥り、貴族らにより君主の権力は大幅に制限されることとなった[3][4]。
1633年4月、脳卒中により部分的に麻痺が残り、完全に回復することはなかった[2][7][8]。同年6月、甥のエルネスト・ボジスロー・ド・クロイをカミエン監督職の後継者に任命し、ポーランド王ヴワディスワフ4世からエルネスト・ボジスローにレンボルクおよびビトゥフを与えてもらうよう望んだが失敗に終わった。2年後、ボギスラフ14世はノボガルトおよびマシェボを甥に譲った[9]。
1637年3月10日、ボギスラフ14世はグリフ家最後の西ポメラニア統治者としてシュテッティンの城で死去した。遺言によりブランデンブルクのホーエンツォレルン家は継承から除外され、ポメラニアはスウェーデンの手に渡ることになった。1648年に署名されたヴェストファーレン条約は、スウェーデンとブランデンブルクに分割されたポメラニアの政治的消滅を確認した。ボギスラフ14世は1654年5月25日にシュテッティン城の聖オットー教会に埋葬された[4][10]。
脚注
[編集]- ^ Rymar 2005, pp. 470–472.
- ^ a b c Rymar 2005, p. 470.
- ^ a b c Szymański 2006, p. 130.
- ^ a b c d Kozłowski & Podralski 1985, p. 133.
- ^ Rymar 2005, p. 471.
- ^ Rymar 2005, p. 475.
- ^ Gottfried von Bülow (1876). "Bogislav XIV". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 3. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 56–58.
- ^ Roderich Schmidt: Bogislaw XIV. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 2, Duncker & Humblot, Berlin 1955, ISBN 3-428-00183-4, S. 418 f. (電子テキスト版).
- ^ Rymar 2005, p. 480.
- ^ Szymański 2006, pp. 132, 135.
参考文献
[編集]- Gottfried von Bülow (1876). "Bogislav XIV". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 3. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 56–58.
- Roderich Schmidt: Bogislaw XIV. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 2, Duncker & Humblot, Berlin 1955, ISBN 3-428-00183-4, S. 418 f. (電子テキスト版).
- Kozłowski, Kazimierz; Podralski, Jerzy (1985). Gryfici. Książęta Pomorza Zachodniego. Szczecin: Krajowa Agencja Wydawnicza. ISBN 83-03-00530-8. OCLC 189424372
- Rymar, Edward (2005). Rodowód książąt pomorskich. Szczecin: Książnica Pomorska im. Stanisława Staszica. ISBN 83-87879-50-9. OCLC 69296056
- Szymański, J.W. (2006). Książęcy ród Gryfitów. Goleniów: Kielce. ISBN 83-7273-224-8
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