コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ベルギー亡命政府 (第二次世界大戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロンドンのベルギー政府
Gouvernement belge à Londres  (フランス語)
Belgische regering in Londen  (ドイツ語)
ベルギー 1940年 - 1944年 ベルギー
ベルギーの国旗 ベルギーの国章
国旗国章
首都 ブリュッセル(法律上)
ロンドン(事実上)
国王
1940年 - 1944年 レオポルド3世(ベルギーで捕虜)
変遷
ドイツによるベルギー占領英語版 1940年5月28日
ベルギーの解放1944年9月8日
ユベール・ピエルロー英語版(左)、亡命政府の首相、1944年4月
ベルギーの歴史
ベルギーの国章
この記事はシリーズの一部です。

ベルギー ポータル

第4次ピエルロー政権としても知られるロンドンのベルギー政府フランス語: Gouvernement belge à Londresオランダ語: Belgische regering in Londen)は、第二次世界大戦期の1940年10月から1944年9月までのベルギー亡命政府であった。政府はカトリック党英語版自由党英語版労働党英語版出身の閣僚が関わる3党政治であった。1940年5月にナチス・ドイツがベルギーに侵攻すると、ユベール・ピエルロー英語版首相のベルギー政府は、初めフランスボルドーに逃げ、それから連合国に対してベルギー唯一の正当な代表として確立するロンドンに逃げた。

最早自国に権限がないとはいえ、政府はベルギー領コンゴを統治し、戦後の再建について他の連合国と交渉を行った。戦時中の亡命政府が行った合意にベネルクス関税同盟の創設や国際連合へのベルギーの加盟があった。政府はベルギー亡命軍英語版にも影響力を発揮し、地下抵抗運動英語版とのつながりを維持しようと試みた。

背景

[編集]

政治的にベルギーの政治は、通常ベルギー労働党英語版(POB-BWP)や自由党英語版と連立を組みながら戦間期はカトリック党英語版に支配されていた。1930年代はベルギー国内でもファシズム政党の人気が高まり、最も知られたところではレクシズムが11%の得票で1936年の選挙英語版で頂点に達した[1]。1930年代前半からベルギーの外交政策と国内政策は、中立政策に支配されていて、国際条約や同盟を離脱し、イギリスやフランス、ドイツのいずれとも良い外交関係を維持しようと試みた[2]

この政策にもかかわらずベルギーは1940年5月10日にドイツ軍に警告なしに侵攻された。18日戦争後、ベルギー軍は5月28日に降伏し、ベルギーはドイツ軍政府の支配下に置かれた。60万[3]から65万人の[4]ベルギー人男性が(ベルギーの男性人口の約20%)[4]戦闘に動員されていた。

王室が政府と一緒に亡命したオランダルクセンブルクと違い、レオポルド3世王は(政府の助言とは反対に)自分の軍と一緒にドイツに降伏した。降伏する前に決して現実のものにならなかったが伝えられるところでは親ナチス派の社会主義者アンリ・ド・マン英語版の下で新政権を樹立することを試みた[5]。戦争の残りの期間自宅軟禁されてドイツの捕虜になった[5]。政府はフランスの亡命先からちょっとの間ドイツ当局と交渉を試みたが、ドイツ当局はベルギー政府職員がベルギーに戻ることを禁ずる布告を発布し、対話は禁止された[6]

ロンドンで政権樹立

[編集]

フランスへの避難

[編集]
政府が1940年に樹立され1944年9月まで存続したロンドンのイートン広場英語版の北側

フランスのベルギー政府は、戦いを続けるフランス帝国に対するフランスのポール・レノー政権に続くつもりでいた[6]。政府は短期間フランス政府の圧力の下レオポルドの降伏を公然と非難したリモージュに作られた[7]。軍事政権が貴族で経験を積んだ兵士のアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン将軍の管理下に置かれた[8]。しかしレノーが親ドイツ派のフィリップ・ペタンに置き換わると、この案は廃止された[6]。新しいヴィシー政権からの敵愾心がある一方で、ピエルロー政権はフランスに留まった。1940年9月16日の手紙で、ペタン政権は当時依然としてボルドーにいるベルギー政府の解体を要求した。

今しばらくフランスでの活動が単に名目上のベルギー政府は、自らを解散する決定をするであろう。残りは外国に行く一方で、政権の一部は、個人としてフランスに留まるであろう。この決定は第三帝国によりフランス政府に指摘されてきた必要性であるドイツに占領された国の外交上の使命の抑圧の一環である。
ヴィシー政権からの手紙(1940年9月16日)[9]

ロンドンへ移動

[編集]

ピエルローの政府が依然フランスにいる一方で、ベルギーの保健相マルセル=アンリ・ジャスパル英語版は、6月21日にロンドンに到着した。ジャスパルはピエルロー政権はドイツに降伏するつもりでいると考えていて、予防することを決心していた。ジャスパルはシャルル・ド・ゴールと会談し、6月23日に英国放送協会のラジオで個人的に戦いを続ける代替政権を組織しようとしていると述べる演説を行った[5]。その立場はボルドーのピエルロー政府から非難され、ロンドンのベルギー大使エミール・ド・カルティエ・ド・マルシエンヌ英語版から冷たい扱いを受けた[5]。他の所謂「ロンドン叛徒」と共にアントウェルペンの社会主義バーゴマスター英語版カミーユ・ユイスマン英語版が加わったジャスパルは、1940年7月5日に政権を樹立した[5]。しかしイギリスはジャスパル・ユイスマン政権を承認するのに気乗りがしなかった[5]

「現在のベルギー政府は、残党であるが、いわば私が理解するように疑いのない血統の残党である。」
イギリス外務省アレクサンダー・カドガン英語版、1940年12月[5]

ピエルロー政府の権威に対する挑戦は、政権を行動に駆り立てた[5]。ピエルローの植民地担当大臣アルベルト・デ・ヴレーシャウエル英語版はジャスパル・ユイスマン政権が樹立された同じ日にロンドンに到着した[5]。ベルギー本国以外で法的力を有するベルギー唯一の閣僚として、自分自身の主導権を握ってほどなく到着したカミーユ・ギュー英語版と共にデ・ヴレーシャウエルはロンドンでイギリスの承認を得て臨時の「二人政権」を樹立できた。二人は参加する為にフランスから移動途中にフランコ体制下のスペインで拘束されていたポール=アンリ・スパークとピエルローを待った[5]。ピエルローとスパークは、ベルギー最後の公選首相を「公式の」政権に齎しながら、「四人政権」時代の始まりとなる1940年10月22日にロンドンに到着した[5]。イギリスは政権自体の規模と合法性同様にベルギーの閣僚の多くを信用しなかった。しかし首相の到着と共に渋々受け入れた。

ベルギー政府の大部分は、戦前にベルギー大使館があったロンドンのベルグレイヴィア地区のイートン広場英語版に落ち着いた。他の政府部門は、ホバート宮殿やベルグレーヴ広場英語版ナイツブリッジ近くに落ち着いた[10]。ベルギー政府の事務所は、ウィルトンクレセント英語版ルクセンブルク[11]ピカデリーオランダ英語版[12]などの他の亡命政府の近くにあった。

1940年12月までにイギリスは「四人政権」を他の亡命政府と同じ立場で合法的な代表として承認した。

陛下の政府はロンドンのベルギー政府を構成する4人のベルギー人閣僚を合法で合憲でベルギーの主権国家の名において十分な権威を実行するに的確なベルギー政府とみなす[13]

構成

[編集]

当初は閣僚は4人であったが、政府は間もなく多くの人が参加した。亡命政府には数多の政府部門に政治家や公務員の双方がいた。殆どは植民地省や財務省、外務省、防衛相に集中していたが、多くは最小限の職員がいた[14]。1941年5月までに最大でロンドンの政府では約750人が働いていた[14]

「四人政府」

[編集]
バルセロナのマジェスティックホテル英語版。ピエルローとスパークは、1940年秋にイギリスに来るためにスペイン警察からホテルに逃げ込んだ。このことは建物の銘板により記念されている。
[5] 大臣職 氏名 政党
首相–公教育及び国防担当 ユベール・ピエルロー英語版 カトリック党英語版
外務、情報及び宣伝担当 ポール=アンリ・スパーク POB-BWP英語版
財務及び経済担当 カミーユ・ギュー英語版 なし(テクノクラート)
植民地及び司法担当 アルベルト・デ・ヴレーシャウエル英語版 カトリック党英語版

無任所大臣

[編集]
フランスの会議代表英語版フランス・ファン・カウウェラルト英語版(1940年6月)。ニューヨークで政府の他の人から離れて戦争時代を過ごした。
[15] 氏名 政党 氏名 政党
アンリ・デニ英語版 なし(テクノクラート) シャルル・ダスプルモン・リンデン英語版 カトリック党英語版
ポール・エミーユ・ヤンソン英語版 
(1943年まで)
自由党英語版 アルトゥール・ヴァンデルポールテン英語版 
(1943年1月まで)
自由党英語版
レオン・マターニュオランダ語版 POB-BWP英語版 アウグスト・デ・シュリヴェル英語版
(1943年5月3日まで)
カトリック党英語版
ウジェーヌ・スーダン英語版 POB-BWP英語版

変更

[編集]

役割

[編集]

亡命政府は国民政府の機能を果たすものと思われたが、「ベルギーの名前で語る資格を与えられた全てである合法的で自由なベルギーに残る全てはロンドンにある」と意見を述べるポール=アンリ・スパークを引っ張るベルギーの関心事も連合国に対して代表していた[17]

ランスロット・オリファント英語版大使の下でイギリスの外交使命は、亡命政府に参加することであった[18]。1941年3月、アメリカもベルギー、オランダ、ポーランドノルウェー英語版の亡命政府にアメリカ合衆国を代表するアンソニー・ビドル2世英語版大使を送った[18]ソビエト連邦は(当時有効な独ソ不可侵条約に酷く影響されて)1941年5月にベルギーとの外交関係を破棄したが、バルバロッサ作戦の余波で亡命政府に公使館を再開し、結局1943年に在外公館の格上げを行った[18]

ベルギー難民

[編集]
1940年のロンドンのベルギー難民の子供達

1940年の亡命政府に直面する最も緊急の憂慮の一つは、イギリスのベルギー難民の状況であった。1940年までに少なくとも15000人のベルギー市民がイギリスに到着し、その多くが資産を持っていなかった[19]。難民はイギリス政府が扱っていたが、1940年9月、政府はイギリスのベルギー人に物資援助や雇用を提供する中央難民部を創設した[20]

ベルギーが1940年に連合国を裏切ったとの信念からイギリス大衆は例外的に1940年のベルギー難民に敵意を抱いた[21]。イギリスの世論調査英語版は、レオポルド3世の降伏決定に密接に関連してイギリスの「ベルギー難民に対する増大する感覚」に触れた[22][23]

政府はベルギー難民に対する社会・教育・文化に関する機関の提供にも関わった。1942年、政府はロンドンのベルギー難民社会を扱うロンドンのベルギー協会英語版創設を発起した[14]。1943年までにケンリス英語版ブレーマー英語版キングストン英語版バクストン英語版に学童330人を有するイギリスのベルギー人学校4校があった[24]

自由ベルギー軍

[編集]

フランスのラジオ放送でベルギーが降伏して間もなくピエルローは戦いを続けるために亡命軍を創設することを呼び掛けた。

ロンドンのヴィクトル・ファン・ストリドンク・ド・ブルケル英語版(1943年)。ファン・ストリドンクは1918年の優勢な騎兵攻勢英語版男爵になっていた。
政府の呼び掛けに応える同じ若々しい勇気とともにフランスやイギリスのベルギー軍を再結成しながら新たな軍が召集され組織される。連合軍と共同で調和し…全軍が我々のものとなった運動に置かれる。…速やかに重要な方法で支援を与える部隊と連合し続ける連帯を保証することが重要である。…
ユベール・ピエルロー英語版、フランスのラジオでの演説、1940年5月28日[25]

既にイングランドに住んでいるベルギー人亡命者同様にダイナモ作戦ダンケルクから救出されたベルギー軍とともに亡命政府はウェールズのテンビー英語版Camp Militaire Belge de Regroupement(CMBR、「ベルギー再編成軍」)創設を承認した[26]。1940年7月までに部隊はベルギー人462人を数え、1940年8月までに約700人に上った[26]。この兵士は8月に第1フュージリア大隊として組織され、政府は司令官としてラウル・ドーフレスヌ・ドゥ・ラ・シュヴァルリーを、新設軍の監察長官としてヴィクトル・ファン・ストリドンク・ド・ブルケル英語版を任命した[27]。ベルギー空軍はイギリスの戦いに参加し、ベルギー政府はイギリス海軍におけるベルギー人部隊創設同様にイギリス空軍内にベルギー人だけの飛行中隊2個中隊の創設に向けて後に成功裏に働きかけられた[28][29]

戦争の初めの頃は政府と国王の忠義を分ける僅かな緊張が政府と軍の間に存在した。自由ベルギー軍特に1940年から訓練を受けてきた歩兵は、戦えない責任を政府に負わせた。1942年11月、ベルギー兵12名が政府の活動を非難して反乱を起こした[16]。1943年までに軍の王党派の立場は、政府が軍の支援を取り戻すことを認めて軟化した[30]

条約と交渉

[編集]
1942年の宣言に署名したベルギーを含む「連合国」の旗を描いたポスター

1941年9月、ベルギー政府は他の亡命政府と共同でロンドンで連合軍が戦後に到達するよう求める共通の目標を示した大西洋憲章に署名した[31]。翌年、政府は1942年1月に他の26か国とともに1945年の国際連合創設の前例をおぜん立てすることになる連合国共同宣言に署名した[32]

1944年から連合軍は益々戦後ヨーロッパの枠組みに存在する問題に憂慮することになった。これは1944年からの数多の条約や合意を通じて具体化された。1944年7月、カミーユ・ギューはベルギー政府のために通貨管理のブレトン・ウッズ体制を作るアメリカ合衆国のブレトン・ウッズ会議(en:Bretton Woods Conference)に出席した。交渉に際してギューは主要な連合軍の代表の重要な仲介役を果たした[33]。合意を通じて会議がギューが初代長官を務めることになる国際通貨基金(IMF)も創設する一方でベルギーフランの交換レートは、戦後アメリカ合衆国ドルに連動することになった[34]

1944年9月、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの亡命政府は、ベネルクス関税同盟結成に関する合意を考案し始めた[35]。合意はベルギー政府が解放後ブリュッセルに戻る直前の1944年9月5日にロンドン関税会議英語版で署名された[36]。ベネルクス関税同盟はベルギーとルクセンブルクの戦前の同盟英語版を大幅に拡張し、後に1958年からのベネルクス経済同盟の基礎を築くことになる[35]

権限

[編集]

連合軍からの金融支援に専ら頼らざるを得なかった他の多くの亡命政府と違い、ベルギー亡命政府は独立して資金を手に入れられた。かなりの部分でこれはベルギー亡命政府がの備蓄の殆どを管理できたことによった。これは秘かに海軍トロール船A4英語版に載せて1940年5月にイギリスに移し、重要な資産を提供した[37]。ベルギー政府は連合軍が戦争活動のために頼りにした(天然ゴム(en:Natural rubber)や金、ウランなどの)大量の天然鉱物を輸出するベルギー領コンゴの支配もしていた[37]

ベルギー政府は自身の機関誌 Moniteur Belge英語版 をロンドンから発行した[38]

立場

[編集]

レオポルド3世との関係

[編集]
1934年に撮影されたレオポルド3世王は、亡命する政府に従うよりも捕虜としてベルギーに残る道を選択した。

立憲君主制にもかかわらず、ベルギーの国王は、戦前ベルギーにおいて重要な政治的役割を占めていた。閣僚への相談なくドイツに降伏するレオポルド3世の決定は、ベルギー内閣を憤慨させた[5]。国王の明らかな反対は、信頼と正当性を損なった。戦争の初めのころ、国王はロンドンの正式な政権を更に損なうことに務める自由ベルギー軍を含めた多くの人から「政府」の別の形態と見られた。後に戦時中に政府は国王に対してあまり好戦的ではないという立場を変更した[5]。その代わりに当時のベルギーの宣伝は、国王の立場を「殉教者」や捕虜として強調し、占領された国土のように同じ殉難を共有する者として表現した[5]。1941年5月10日(ドイツ侵攻1周年)のラジオ演説で、ピエルローはベルギー人に「捕虜になった国王の周りに結集しよう。殺される国土を体現している。我々がここにいるように王に忠誠を誓おう」と呼び掛けた[39]

1831年憲法英語版によると、統治能力がないと宣言されれば、ベルギー政府は国王の意思に優先することができた[40]。1940年5月28日、フランス政府の圧力を受けて、強力な法的基盤を与え政府の唯一の公的な源にしながら、フランスのピエルロー政権は、国王は侵略者の支配を受け82条により統治するにふさわしくないと宣言した[7][40]。しかし政府は共和制を宣言することは拒否した[7]。厳密に言えば国王は公使を受け入れ条約を締結できる唯一の人物であり続けたが、亡命政府は戦争中独自に両方ができた[13]

ベルギーに戻ると、王政の問題は、議論が続き、解放間もない1944年9月20日、レオポルドの兄弟シャルル・ド・ベルジック摂政皇太子を宣言した[41]

抵抗運動との関係

[編集]
「我等はドイツの束縛から解放するイギリスの力を十分に信頼している。…地味な手段でこの戦いの趣旨と栄誉を共有する権利を主張するが、全く取るに足らない手段ではない。我等は敗北主義者ではない。…」
1940年6月23日のラジオ放送におけるカミーユ・ユイマン英語版[5]

ジャスパル=ユイマン政権は1940年のフランスの降伏前にロンドンから占領されたベルギーでの組織された抵抗運動の開始を呼び掛けた。

ロンドンに到着してから正式な政権は、BBCのRadio Belgiqueによる放送である占領されたベルギーに向けたフランス語とオランダ語のラジオ放送に関する管理ができることになった。ラジオ局は抵抗運動を保つのに必須であり、等しく公開され、記者のポル・レヴィ英語版の管理下に置かれた[42]。ラジオでのこうした働きの中にニュースリーダーとして働き「勝利に向けたV」キャンペーンを考案したとされる元閣僚ヴィクトル・ド・ラヴレイ英語版がいる[43]

戦争の初めの頃、政府は占領されたベルギーの抵抗運動と接触するのが困難なのに気付いた。1941年5月、秘密軍英語版グループが接触を始めようと試みて隊員を派遣したが、ロンドンに着くのに丸1年かかった[44]。無線交信は1941年後半に簡潔に始まったが、1942年から1943年にかけて非常に断続的に行われた。最大グループ秘密軍英語版との永続的な無線交信は(コードネーム:「スタンリー」)、1944年に始まっただけであった[44]

ブリュッセルの北の田園地帯での英軍機による抵抗運動に向けた補給物資

ベルギーの事件から亡命政府が明らかに孤立していたことは、特に政策が樹立された政権と異なる多くの抵抗運動組織が疑いの目で見ていたことを示していた。その中で政府は抵抗運動組織が政府の立場に挑戦し政治的安定に脅威を与えながら解放後に抑制のきかない民兵に転ずることを恐れた[45]。対して抵抗運動は頻繁に亡命政府やイギリスの特殊作戦執行部(SOE)のみが供給できる資金や装備、補給物資に頼っていた[44]。戦争の流れの中で亡命政府は単独でArmée Secrèteに対してパラシュートで投下するか中立国のポルトガル英語版を通じて資金移転をすることで1億2400万~2億4500万フランを提供した。これより少ない額が他の組織に提供された[44]

亡命政府はレジオン・ベルジュベルギー国民運動英語版グループG英語版独立戦線英語版などの主要な組織の代表から成る「共同委員会」を創設することで1944年5月に抵抗運動との関係を再構築することを企図した[46]。しかし委員会は9月の解放で不要になった。

ベルギーへの帰国

[編集]
「誰も我々の到着を予告されていなかった。車は町に我々を乗せて行き、ジープに先導された。仲間の一人が通り過ぎる市民に叫びながらその中に立っていた。「政府はここにある。」僅かな違いもなく敵意も熱狂もなく何の反応も生み出さなかったことを白状しなければならない。」
ポール=アンリ・スパーク:政府のブリュッセル帰還に関して[5]

連合軍は1944年9月1日にベルギーに入城した[47]。9月6日、ウェールズ防衛隊英語版が首都ブリュッセルを解放した[47]。亡命政府は1944年9月8日にブリュッセルに帰還した[19]通貨供給を制限することで解放されたベルギーの激しいインフレーションを無効にするためにカミーユ・ギューにより考案された案「ギュー作戦」が大成功をおさめながら実行に移された[48]

9月26日、ピエルローはブリュッセルに挙国一致内閣(第5次ピエルロー内閣)の新政権を樹立した。新政権にはロンドン時代からの(「4人」の全員などの)閣僚の多くがいたが、初めてベルギー共産党英語版も含んでいた[49]。1944年12月にピエルローは依然首相であったが、三頭政権が樹立された。1945年に1939年以来首相であったが、ピエルローは遂に首相の座を社会主義者アキレ・ヴァン・アケル英語版に譲った[50]

亡命政府は結成からベルギーを統治した伝統的な政党が依然存在する最後の政権の一つであった。1945年、POB-BWPは党名をベルギー社会党英語版(PSB-BSP)に変更し、カトリック党はキリスト教社会党英語版(PSC-CVP)になった[51][52]

関連項目

[編集]
第二次世界大戦における、他国の亡命政府

参照

[編集]
  1. ^ Bonney, Richard (2009). Confronting the Nazi war on Christianity: the Kulturkampf Newsletters, 1936–1939. Oxford: Peter Lang. pp. 175–6. ISBN 978-3-03911-904-2 
  2. ^ Amersfoort, Herman; Klinkert, Wim (eds.) (2011). Small Powers in the Age of Total War, 1900–1940. Leiden: Brill. pp. 243–4. ISBN 90-04-20321-4 
  3. ^ Bailly, Michel (2 February 1990). “Forces et faiblesses de l'armée belge en 1940 à la veille de la guerre”. Le Soir. http://archives.lesoir.be/forces-et-faiblesses-de-l-armee-belge-en-1940-a-la-veil_t-19900202-Z02C79.html 17 January 2013閲覧。 
  4. ^ a b Various authors (1941). Belgium: The Official Account of What Happened, 1939–40. London: Belgian Ministry of Foreign Affairs. p. 99. http://www.ibiblio.org/hyperwar/UN/Belgium/Belgium_1939-40/ 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Yapou, Eliezer (2006). “Belgium: Disintegration and Resurrection”. Governments in Exile, 1939–1945. Jerusalem. http://governmentsinexile.com/yapoubelgium.html 
  6. ^ a b c Wullus-Rudiger, Jacques-Armand (1945). La Belgique et la Crise Européene, 1914–1945. II: 1940–1945. Éd. Berger-Levrault. p. 36. OCLC 004156520 
  7. ^ a b c Knight, Thomas J. (March 1969). “Belgium Leaves the War, 1940”. The Journal of Modern History 41 (1): 52. doi:10.1086/240347. JSTOR 1876204. 
  8. ^ Geller, Jay Howard (January 1999). “The Role of Military Administration in German-occupied Belgium, 1940–1944”. Journal of Military History 63 (1): 52. doi:10.2307/120335. JSTOR 120335. 
  9. ^ Wullus-Rudiger, Jacques-Armand (1945). La Belgique et la Crise Européene, 1914–1945. II: 1940–1945. Éd. Berger-Levrault. p. 37. OCLC 004156520 
  10. ^ Laporte, Christian (1 September 1994). “Quatre ans à Londres: Eaton Square, Petite Belgique”. Le Soir. http://archives.lesoir.be/quatre-ans-a-londres-eaton-square-petite-belgique_t-19940901-Z08GC1.html 7 July 2013閲覧。 
  11. ^ Welcome”. Embassy of Luxembourg in London. 11 May 2013閲覧。
  12. ^ Plaque: Netherlands Government in exile”. London Remembers. 6 May 2013閲覧。
  13. ^ a b Talmon, Stefan (2001). Recognition of Governments in International Law, with particular reference to Governments in Exile (Reprint. ed.). Oxford: Oxford University Press. p. 130. ISBN 978-0-19-924839-1 
  14. ^ a b c Conway, Martin, ed (2001). Europe in Exile: European Exile Communities in Britain 1940–45 (1st ed.). New York: Berghahn. pp. 55–6. ISBN 1-57181-503-1 
  15. ^ a b c d e f g h i j k l Le gouvernement Pierlot IV (1940–1944)”. Histoire-des-belges.be. 14 July 2013閲覧。
  16. ^ a b c d Conway, Martin, ed (2001). Europe in Exile: European Exile Communities in Britain 1940–45 (1st ed.). New York: Berghahn. p. 92. ISBN 1-57181-503-1 
  17. ^ “Why Belgium Fights On: Civilisation will Perish if Nazis Win”. The Mercury. (13 March 1941). http://nla.gov.au/nla.news-article25851926 7 May 2013閲覧。 
  18. ^ a b c Wullus-Rudiger, Jacques-Armand (1945). La Belgique et la Crise Européene, 1914–1945. II: 1940–1945. Éd. Berger-Levrault. p. 40. OCLC 004156520 
  19. ^ a b Conway, Martin, ed (2001). Europe in Exile: European Exile Communities in Britain 1940–45 (1st ed.). New York: Berghahn. p. 61. ISBN 1-57181-503-1 
  20. ^ Conway, Martin, ed (2001). Europe in Exile: European Exile Communities in Britain 1940–45 (1st ed.). New York: Berghahn. pp. 57–8. ISBN 1-57181-503-1 
  21. ^ Langworth, Richard M. "Feeding the Crocodile: Was Leopold Guilty?". Churchill Centre. 2013年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月17日閲覧
  22. ^ Crang, Jeremy A., Addison, Paul (2011). Listening to Britain: Home Intelligence Reports on Britain's Finest Hour, May–September 1940. London: Vintage. pp. 71; 56. ISBN 0-09-954874-7 
  23. ^ Conway, Martin, ed (2001). Europe in Exile: European Exile Communities in Britain 1940–45 (1st ed.). New York: Berghahn. p. 54. ISBN 1-57181-503-1 
  24. ^ Conway, Martin, ed (2001). Europe in Exile: European Exile Communities in Britain 1940–45 (1st ed.). New York: Berghahn. p. 60. ISBN 1-57181-503-1 
  25. ^ Gerard, Emmanuel; Van Nieuwenhuyse, Karel, eds (2010). Scripta Politica: Politieke Geschiedenis van België in Documenten, 1918–2008 (2nd ed.). Leuven: Acco. pp. 164–5. ISBN 978-90-334-8039-3 
  26. ^ a b La Brigade Piron: Création en Grande-Bretagne”. Brigade-piron.be. 1 July 2013閲覧。
  27. ^ Thomas, Nigel (1991). Foreign Volunteers of the Allied Forces, 1939–45. London: Osprey. pp. 15–6. ISBN 978-1-85532-136-6 
  28. ^ Donnet, Michel (2006). Les Aviateurs Belges dans la Royal Air Force. Brussels: Racine. pp. 104–5. ISBN 978-2-87386-472-9 
  29. ^ Royal Navy Section Belge”. KLM-MRA. 24 July 2013閲覧。
  30. ^ Conway, Martin, ed (2001). Europe in Exile: European Exile Communities in Britain 1940–45 (1st ed.). New York: Berghahn. p. 94. ISBN 1-57181-503-1 
  31. ^ Inter-Allied Council Statement on the Principles of the Atlantic Charter: September 24, 1941 [Text]”. Yale University. 13 July 2013閲覧。
  32. ^ Declaration by the United Nations, January 1, 1942 [Text]”. Yale University. 13 July 2013閲覧。
  33. ^ Crombois, Jean F. (2011). Camille Gutt and Postwar International Finance. London: Pickering & Chatto. p. 107. ISBN 978-1-84893-058-2 
  34. ^ The Bretton Woods Institutions” (PDF). National Bank of Belgium. 13 July 2013閲覧。
  35. ^ a b Walsh, Jeremy. “Benelux Economic Union – A New Role for the 21st Century”. Lehigh University. http://martindale.cc.lehigh.edu/sites/martindale.cc.lehigh.edu/files/BeneluxEconomy.pdf 13 July 2013閲覧。 
  36. ^ "Treaty Establishing the Benelux Economic Union (1958)" (PDF). United Nations University. 2011年9月26日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2013年7月13日閲覧
  37. ^ a b Buyst, Erik (November 2011). “Camille Gutt and Postwar International Finance”. EH.Net. http://eh.net/book_reviews/camille-gutt-and-postwar-international-finance 13 July 2013閲覧。 
  38. ^ Knight, Thomas J. (March 1969). “Belgium Leaves the War, 1940”. The Journal of Modern History 41 (1): 53. doi:10.1086/240347. JSTOR 1876204. 
  39. ^ Wullus-Rudiger, Jacques-Armand (1945). La Belgique et la Crise Européene, 1914–1945. II: 1940–1945. Éd. Berger-Levrault. p. 43. OCLC 004156520 
  40. ^ a b Talmon, Stefan (2001). Recognition of Governments in International Law, with particular reference to Governments in Exile (Reprinted ed.). Oxford: Oxford University Press. pp. 150–1. ISBN 978-0-19-924839-1 
  41. ^ Wauters, Arthur (September 1946). “The Return of the Government”. Annals of the American Academy of Political and Social Science 247: 1–4. doi:10.1177/000271624624700102. JSTOR 1025662. 
  42. ^ Grosbois, Thierry (1998). Pierlot, 1930–1950. Brussels: Racine. pp. 184–7. ISBN 2-87386-485-0 
  43. ^ Gotovitch, José; Aron, Paul, eds (2008). Dictionnaire de la Seconde Guerre Mondiale en Belgique. Brussels: André Versaille éd.. pp. 372–3. ISBN 978-2-87495-001-8 
  44. ^ a b c d De Vidts, Kim (2004). "Belgium: A Small but Significant Resistance Force during World War II" (PDF). MA Thesis. Hawaii Pacific University: 89–90. 2012年5月21日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2013年7月14日閲覧
  45. ^ Moore, Bob (ed.) (2000). Resistance in Western Europe (1st ed.). Oxford: Berg. p. 54. ISBN 1-85973-274-7 
  46. ^ Moore, Bob (ed.) (2000). Resistance in Western Europe (1st ed.). Oxford: Berg. p. 53. ISBN 1-85973-274-7 
  47. ^ a b 1944: the Liberation of Brussels”. Brussels.be. 7 March 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。13 July 2013閲覧。
  48. ^ Marc, Metdepenningen (10 September 1994). “L'Opération Gutt était prête en 1943”. Le Soir. http://archives.lesoir.be/l-operation-gutt-etait-pretre-en-1943_t-19940910-Z08HG2.html 14 July 2013閲覧。 
  49. ^ Le gouvernement Pierlot V (1944)”. Histoire-des-belges.be. 14 July 2013閲覧。
  50. ^ "Achille Van Acker". DiRupo.be. 2013年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月20日閲覧
  51. ^ PSB: Sigle de Parti Socialiste Belge”. Larousse Online. 20 July 2013閲覧。
  52. ^ PSC: Sigle de Parti Sociale Chrétien”. Larousse Online. 20 July 2013閲覧。

参考文献

[編集]
概観
主要な出典
  • De Schryver, August (1998) (オランダ語). Oorlogsdagboeken, 1940–1942. Tielt: Lannoo. ISBN 90-209-2971-2 
  • Dutry-Soinne, Tinou (2006) (フランス語). Les Méconnus de Londres: Journal de Guerre d'une Belge, 1940–1945 (vol. 1). Brussels: Racine. ISBN 2-87386-483-4 
  • Dutry-Soinne, Tinou (2008) (フランス語). Les Méconnus de Londres: Journal de Guerre d'une Belge, 1940–1945 (vol. 2). Brussels: Racine. ISBN 2-87386-504-0 
  • Gutt, Camille (1971) (フランス語). La Belgique au Carrefour, 1940–1944. Fayard 

外部リンク

[編集]