ヘンリー・パジェット (第3代アングルシー侯爵)
第3代アングルシー侯爵ヘンリー・ウィリアム・ジョージ・パジェット(英語: Henry William George Paget, 3rd Marquess of Anglesey、1821年12月9日 – 1880年1月30日)は、イギリスの貴族、政治家。自由党に所属し、1854年から1857年まで庶民院議員を務めた[1]。
生涯
[編集]第2代アングルシー侯爵ヘンリー・パジェットと1人目の妻エレノーラ(Eleanora、旧姓キャンベル(Campbell)、1799年ごろ – 1828年7月3日、ジョン・キャンベルと妻シャーロットの間の娘)の息子として、1821年12月9日に生まれた[1]。
1841年5月21日、グレナディアガーズのエンサイン(少尉)および中尉(Ensign and Lieutenant)の辞令を購入した[2]。1845年5月23日に軍務から引退した[3]。
1839年3月26日、スタッフォードシャー民兵隊の大尉に任命された[4]。1851年5月16日、スタッフォードシャーの副統監に任命された[5]。1853年1月5日、スタッフォードシャー民兵隊第2連隊の副隊長(中佐)に任命された[6]。
1854年2月、自由党の候補としてサウス・スタッフォードシャー選挙区の補欠選挙に出馬して、4,328票を得て庶民院議員に当選した[7]。1857年イギリス総選挙では再選を目指さず、議員を退任した[7]。
1869年2月6日に父が死去すると、アングルシー侯爵位を継承した[1]。
1880年1月30日にロンドンのヴィクトリア・ストリートにあるアルバート・マンションズ(Albert Mansions)で死去、異母弟ヘンリーが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1845年6月7日、ソフィア・エヴァーズフィールド(Sophia Eversfield、1901年12月7日没、ジェームズ・エヴァーズフィールドの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[1]。
出典
[編集]- ^ a b c d e Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 140.
- ^ "No. 19980". The London Gazette (英語). 21 May 1841. p. 1282.
- ^ "No. 20473". The London Gazette (英語). 23 May 1845. p. 1539.
- ^ "No. 19726". The London Gazette (英語). 19 April 1839. p. 833.
- ^ "No. 21211". The London Gazette (英語). 20 May 1851. p. 1334.
- ^ "No. 21401". The London Gazette (英語). 11 January 1853. p. 73.
- ^ a b Craig, F. W. S. (1977). British Parliamentary Election Results 1832–1885 (英語). London: Macmillan Press. p. 458. ISBN 978-1-349-02349-3。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Paget
- ヘンリー・パジェット - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
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庶民院議員(サウス・スタッフォードシャー選挙区選出) 1854年 – 1857年 同職:エドワード・リトルトン閣下 |
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