ヘンリエッタ・マリア・ガリヴァー
ヘンリエッタ・マリア・ガリヴァー Henrietta Maria Gulliver | |
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生誕 |
1866年10月29日 オーストラリア, セール(sale) |
死没 | 1945年7月15日 |
ヘンリエッタ・マリア・ガリヴァー(Henrietta Maria Gulliver、1866年10月29日 – 1945年7月15日)はオーストラリアの画家である。風景画や花などの静物画を描いた。園芸家やランドスケープ・デザイナーとしても働いた。
略歴
[編集]ビクトリア州西部のセール(sale)で育った。父親は薬剤師で、母親はフライフィッシングの名手、アルフレッド・ロナルズの娘で、毛鉤造りを仕事にしていた[1]。1885年頃、メルボルンに移り、園芸家、花屋の叔父の店で働き、自らの店も開いた[2]。1890年に、便秘薬「Laxettes」を売り出して成功した裕福な薬剤師、ジョージ・エイキンス・ガリヴァーと結婚し[3]、メルボルンやイギリス、サリー州のケイパル(Capel)に住んだ[4]。メルボルンの邸などの庭園をデザインし評判になった。
1892年から1899年の間、ビクトリア国立美術館(ナショナル・ギャラリー)付属の美術学校(National Gallery of Victoria Art School)で絵を学び、教師を務めていたトム・ロバーツに、絵を描くことを勧められ、美術学校で学んでいたアーサー・ストリートンとも知り合い、ストリートンの絵のスタイルから影響を受けた。1905年にフレデリック・マッカビンの邸で開かれた展覧会に出展することを求められた。「メルボルン婦人画家・彫刻家協会(Melbourne Society of Women Painters and Sculptors)」の創立メンバーとなり、2度会長を務めた[5]。1918年に「オーストラリアン・トーナリズム(Australian tonalism)」の画家、マックス・メルドラムを中心とした美術家グループ、「Twenty Melbourne Painters Society」の会員になった[6]。ヴィクトリア芸術家協会でも活動し、理事も務めた。
自らデザインした庭園や庭園の花を描き、クララ・サザン、ヒルダ・リィクス・ニコラス、エルシー・バロー、アリス・マリアン・エレン・ベールといったオーストラリアの女性画家たちも、ガリヴァーの邸や別荘を訪れ、絵を描いた[7]。
作品
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「ホーンソーンの小道」(1909)
ビクトリア州立図書館 蔵 -
「ダリア」(1913)
キャッスルメイン美術館 蔵 -
キャベツ畑
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バラのある静物画
参考文献
[編集]- ^ Ronalds, B.F. (2021). “Maria Ronalds Shanklin: Australian Pioneer Fly Tier”. American Fly Fisher 47:1: 2-5.
- ^ Ronalds, B.F. (2020). “Nathaniel Ronalds: Nurseryman and florist”. Australian Garden History Journal 32:1: 24-27.
- ^ “Henrietta Maria Gulliver née Shanklin”. Sir Francis Ronalds and his Family. 13 December 2021閲覧。
- ^ Ronalds, B.F. (2022). “A symbiosis of horticulture and painting: Exploring Henrietta Gulliver’s gardens through her art”. Australian Garden History Journal 33:3: 14-17.
- ^ Peer, J. (1993). More than Just Gumtrees. Melbourne Society of Women Painters and Sculptors
- ^ “Members”. Twenty Melbourne Painters Society Inc (24 July 2017). 7 April 2018閲覧。
- ^ “The Hawthorn Path. [picture]”. State Library Victoria. 7 April 2018閲覧。