アーサー・ストリートン
アーサー・ストリートン Arthur Streeton | |
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生誕 |
1867年4月8日 オーストラリア, Mount Duneed |
死没 |
1943年9月1日 オーストラリア, Olinda |
運動・動向 | ハイデルバーグ派 |
アーサー・ストリートン(Sir Arthur Ernest Streeton、1867年4月8日 - 1943年9月1日)はオーストラリアの風景画家である。1880年代半ばから、ビクトリア州のメルボルン近郊のハイデルバーグに集まった芸術家「ハイデルバーグ派」(Heidelberg School)の画家の一人である。「オーストラリアの印象派」の画家の一人としても知られる。
略歴
[編集]ビクトリア州のジーロングの郊外、Mount Duneedで生まれた[1]。両親は1854年にイギリスからオーストラリアに移住する船で知り合い結婚した夫婦である[2]。1874年に家族はメルボルン近郊のリッチモンドに移った。メルボルンのビクトリア国立美術館(ナショナル・ギャラリー)付属の美術学校(National Gallery of Victoria Art School)でフォリングスビー(G. F. Folingsby )に学んだ[3]。メルボルンの美術学校の同僚、フレデリック・マッカビンやトム・ロバーツと親しくなり、フランスの印象派の画家やイギリスのターナーの作品から影響を受けた。1885年にヴィクトリア州の美術アカデミーの展覧会に出展した。メルボルンの版画家で美術商のトローデル(Charles Troedel)のもとで働いた[4]。
1885年から1886年の間は、トム・ロバーツらとメルボルン郊外のボックスヒルの風景を描いた。1888年の夏、その年亡くなった、スイス生まれでオーストラリアで活動した風景画家のルイ・ビュベロ(Louis Buvelot)が風景画を描いた場所を訪ねて、ハイデルバーグを訪れた[5]。鉄道の駅から遠いため、増えていたハイデルバーグの空き家を安く借りて1889年に移住し、フレデリック・マッカビンやチャールズ・コンダー、トム・ロバーツらと活動し、「ハイデルバーグ派」が形成されることになった。1891年にはニューサウスウェールズ州の海岸の町モスマンでも活動した。
1897年に初めてヨーロッパに渡り、パリやイギリスの展覧会に出展した。イギリス滞在中に第一次世界大戦がはじまると軍に志願し、1917年にオーストラリア軍の公式戦争画家に任じられた。
1919年にオーストラリアに帰国し、風景画家、美術評論家として働いた。
作品
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Sunlight Sweet, Coogee (1890)
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Blue Pacific (1890)
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"Above us the great grave sky" (1890)
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雑誌「Australasian Sketcher 」挿絵(1889)
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"Princes Bridge"(1888)
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"Golden summer" (1889)
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「サン=カンタン山」(1918)
脚注
[編集]- ^ http://monumentaustralia.org.au/themes/people/arts/display/32771-sir-arthur-streeton
- ^ "Streeton, Sir Arthur Ernest (1867–1943)," Australian Dictionary of Biography Online
- ^ Reid, John B. (1977). Australian Artists at War: Compiled from the Australian War Memorial Collection. Volume 1, p. 16.
- ^ Galbally, Ann E. Galbally. (1990). "Streeton, Sir Arthur Ernest (1867–1943)," Australian Dictionary of Biography Online
- ^ NGV Collection > Summer afternoon, Templstowe, ngv.vic.gov.au. Retrieved 23 October 2011.
参考文献
[編集]- Galbally, Ann E. Galbally: "Streeton, Sir Arthur Ernest (1867 - 1943)," Australian Dictionary of Biography, deel 12. Carlton, Victoria: Melbourne University Press, 1990