プロジェクト‐ノート:中華人民共和国の行政区分/遼寧省の歴史
遼寧省の行政区画の歴史(りょうねいしょう-の-ぎょうせいくかく-の-れきし)では、中国遼寧省の行政区画の変遷について述べる。
清
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中華民国
[編集]1911年(宣統3年)の辛亥革命により中華民国が成立した後も奉天省は清朝の実効支配が続き、その行政区画も清代のものが踏襲され、東三省総督兼奉天巡撫を全省の軍政及び民政の長とし、吉林省及び黒竜江省を監督していた。1912年(民国元年)7月、東三省総督を奉天都督に改編、吉林・黒竜江の行政組織と分離、1913年(民国2年)には民政長(1914年に巡按使、1915年に省長と改称)を新設し軍政と民政の分離が実施された。
1928年(民国17年)12月31日、張学良等による易幟により奉天省は国民政府に帰順、同日国民政府は奉天省の設置を指示し、省会を瀋陽県に設置することが定められた。1929年(民国18年)1月、東北政務委員会が設置され東北三省に対する国民政府の実行支配が開始され、張学良が主任委員に任命され東北三省の行政事務を管轄することとなった。
1929年1月、南京政府国務会議は奉天省を遼寧省に改称することを決定、2月に正式な改名指示が出され、3月1日より遼寧省を正式名称とすることが通達された。
民初の遼寧省は遼東半島貔子窩から普蘭店以南の地域であり、域内には日本の租借地であった関東州や、特殊権益を有していた南満州鉄道付属地が含まれていた。1930年(民国19年)の調査では全省面積は288,518.3平方キロメートル、1934年(民国23年)に中央地質研究所の調査報告によれば250,813平方キロメートルと報告されている。
満州国
[編集]1931年(民国20年)、満州事変が勃発すると関東軍により遼寧省より奉天省と改称され、省政府が奉天市に設置された。
1932年(大同元年)3月9日、満州国国務院は省政府を省公署と改称、1934年(康徳元年)12月1日、省内を奉天省、安東省、錦州省に分割され、奉天市、遼陽県、遼中県、本渓県、撫順県、瀋陽県、鉄嶺県、開原県、新民県、法庫県、康平県、海城県、営口県、蓋豊県、復県、興京県、清原県、西豊県、昌図県、梨樹県、双山県、遼源県、海竜県、輝南県、柳河県、東豊県、西安県、濛江県を管轄するようになった。
1937年(康徳4年)7月1日、輝南県、柳河県、金川県、濛江県は通化省に、1938年(康徳5年)7月1日に四平街市、海竜県、開原県、昌図県、東豊県、西豊県、西安県、双遼県、梨樹県が四平省にそれぞれ分割されている。
国共内戦
[編集]中華民国
[編集]満州国が設置されたために中華民国遼寧省は一旦消滅したが、日本の敗戦に伴い満州国が崩壊すると1945年に再び設置、瀋陽市に省会が設置された。1947年(民国36年)6月5日には東北9省の行政区域が正式に公布され満州国時代の奉天省及び錦州省地域が遼寧省と指定されたが、1948年(民国37年)の遼沈戦役により共産党軍の支配下に入っていたため、遼寧省が機能した期間はきわめて短い。
再設置された遼寧省は民初における遼寧省の中西部、現在の葫芦島市南票区及び義県以東、開通県及び彰武県以南、鳳城市及び新賓満族自治県以西とされ、東は安東省、西は河北省及び熱河省、北は遼北省に接し、南は遼東湾及び黄海に接していた。
共産党
[編集]1945年(民国34年)10月、満州国奉天省地域に奉天省自治政府が成立、省会を瀋陽市に設置した。国共内戦の戦況に伴い、同年11月25日には本渓市に、翌1946年(民国35年)4月には安東市に移転し安東省政府との合同公署が成立した。同年7月、再び遼寧省政府が通化市で組織されたが、11月の通化陥落に伴い臨江県に移転、1947年(民国36年)には再び梅河口に移転している。1948年(民国37年)7月、遼南行署と合併、下部に4市14県を管轄するようになった。同年12月には解放区の拡大に伴い万福、青城、牛庄の各県が廃止となった。
1949年(民国38年)4月21日、安東省と合併し遼東省に統合された。
行政区画
[編集]道制
[編集]1929年以前、遼寧省には道制が施行されていた。道制度廃止直前の状況は下記の通り
遼瀋道
[編集]1913年(民国2年)9月に南路道として設置され、海城、蓋平、遼中、遼陽、営口、金県、復県、岫岩、庄河の各県を管轄した。同年9月に中路道及び西路道が廃止されたことから管轄地域が拡大し、瀋陽、鉄嶺、開原、錦県、広寧、綏中、義県、寧遠、盤山、錦西、新民、鎮安、彰武、東平、西安、西豊の各県が加わり21県を管轄した。1914年(民国3年)7月に遼瀋道と改名された。道尹は当初営口県に設置されたが、1914年(民国3年)に瀋陽県に移転し、1929年(民国18年)に廃止される際には、瀋陽、鉄嶺、開原、東豊、西豊、西安、営口、遼陽、遼中、台安、蓋平、海城、錦県、新民、彰武、黒山、盤山、北鎮、義県、興城、綏中、錦西の22県を管轄していた。
東辺道
[編集]1913年(民国2年)9月に東路道として設置され、安東、興京、通化、鳳凰、寛甸、桓仁、臨江、輯安、長白、安図、撫松の各県を管轄した。同年9月に中路道及び西路道が廃止されたことから管轄地域が拡大し、庄河、岫岩、海竜、柳河、復県、金県、撫順、本渓の各県が加わり20県を管轄していた。1914年6月に東辺道と改称、1926年に金河政治局が新設された。1929年(民国18年)に廃止となっている。
洮昌道
[編集]1913年(民国2年)9月に北路道として設置され、遼源、昌図、奉化、懐徳、康平、洮南、開通、靖安、安広、醴泉、鎮東の各県を管轄した。同年9月に法庫県が移管された。1914年(民国3年)6月に洮昌道と改称され、道尹は洮南県に設置された(1917年(民国6年)4月に遼源県に移転)、下部に遼源、洮南、昌図、康平、開通、洮安、梨樹、安広、懐徳、突泉、鎮東、法庫の12県を管轄した。その後同年8月に双山県、翌1915年(民国4年)5月には瞻楡県、突泉設治局、1918年(民国7年)6月には通遼県が移管されてた。1929年(民国18年)に廃止となっている。
中路道
[編集]1913年(民国2年)9月に中路道が設置され、瀋陽、鉄嶺、開原、東豊、西豊、西安、撫順、本渓、海竜、輝南、柳河の各県を管轄した。財政難を理由に同年9月に廃止となり、管轄県は南路道及び東路道に編入された。
西路道
[編集]1913年(民国2年)9月に西路道が設置され、錦県、新民、彰武、鎮安、盤山、広寧、義県、寧遠、綏安、錦西、法庫の各県を管轄した。財政難を理由に同年9月に廃止となり、管轄県は南路道及び北路道に編入された。
満州国成立以前の行政区画
[編集]1913年(民国2年)1月、臨時大総統により『劃一令』が発布され、翌月奉天省内に設置されていた府、直隷庁、直隷州、庁、州は全て「県」に改称された[1]。1915年(民国4年)7月には県佐制度が施行されたが、1929年(民国18年)1月の易幟に伴い国民政府の地方行政制度が施行されたことより県佐制度は廃止されている。
- 瀋陽県:清代は奉天府直轄地。1913年2月に承徳県、同年5月に瀋陽県と改称。遼寧道の駐地であり、遼寧省(奉天省)の省会とされた。
- 鉄嶺県
- 開原県
- 清原県:1925年5月、開原県より分割、清源県として設置。1929年7月に清原県と改称。
- 東豊県:旧称は東平県。1914年に東豊県と改称。
- 西豊県
- 西安県
- 営口県
- 遼陽県
- 遼中県
- 台安県:1914年、遼中県八角台郷と鎮安県桑林子郷地区に新設。
- 蓋平県
- 海城県
- 錦県
- 新民県
- 彰武県
- 黒山県:旧称は鎮安県。1914年に黒山県と改称。
- 盤山県
- 北鎮県:旧称は広寧県。1914年に北鎮県と改称。
- 義県
- 興城県
- 綏中県
- 錦西県
- 安東県
- 新賓県
- 通化県
- 鳳城県
- 寛甸県
- 桓仁県:旧称は懐仁県。1914年に桓仁県と改称。
- 臨江県
- 輯安県
- 長白県
- 安図県
- 撫松県
- 撫順県
- 本渓県
- 海竜県
- 輝南県
- 柳河県
- 金県
- 復県
- 岫岩県
- 庄河県
- 金川県:1926年に柳河県に金川設治局を設置。1929年に県制施行。
- 洮南県
- 遼源県
- 昌図県
- 康平県
- 開通県
- 洮安県:旧称は靖安県。1914年に洮安県と改称。
- 梨樹県:旧称は奉化県。1914年に梨樹県と改称。
- 安広県
- 懐徳県
- 突泉県:旧称は醴泉県。1914年に突泉県と改称。
- 鎮東県
- 法庫県
- 双山県:清代は内蒙古哲里木盟達爾汗王の管轄地の采哈新甸。民初は双山鎮安墾局が設置され、1914年に県制が施行。
- 瞻楡県:1915年、突泉県南部に設置。
- 通遼県:1918年、遼西県西部の通遼鎮に新設。
満州国崩壊直前の下部行政区画
[編集]- 奉天市
- 撫順市:1934年、撫順県城区を分離設置
- 営口市:1934年、営口県城区を分離設置
- 鞍山市:1934年、遼陽県より分離設置
- 遼陽市:1934年、遼陽県城区を分離設置
- 鉄嶺市:1934年、鉄嶺県城区を分離設置
- 本渓湖市:1934年、本渓県城区を分離設置
- 本渓県
- 鉄嶺県
- 撫順県
- 遼中県
- 新民県
- 法庫県
- 康平県
- 蓋平県
- 復県
- 興京県
- 清原県
- 海城県
中国共産党遼寧省
[編集]遼東省統合直前の下部行政区画は下記の通り