ブリャチスラフ・ヴァシリコヴィチ (ポロツク公)
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ブリャチスラフ・ヴァシリコヴィチ Брачыслаў Васількавічаў | |
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ヴィテプスク公 ポロツク公 | |
在位 |
ヴィテプスク公:1221年頃 - 1232年頃 ポロツク公:1232年 - 1241年以降 |
死去 |
1241年以降 |
子女 |
アレクサンドラ 娘(タウトヴィラスの妻) イジャスラフ ヴァシリコ |
家名 | リューリク家 |
父親 | ヴィテプスク公ヴァシリコ・ブリャチスラヴィチ |
母親 | スモレンスク公ダヴィド・ロスチスラヴィチの娘 |
ブリャチスラフ・ヴァシリコヴィチ(ベラルーシ語: Брачыслаў Васількавічаў、? - 1241年以降)は、リューリク朝出身者としては最後のポロツク公と考えられる人物である。ヴィテプスク公:1221年頃 - 1232年頃、ポロツク公:1232年 - 1241年以降。
経歴
[編集]ブリャチスラフについて知られていることは非常に少ない。どうやらポロツク公国のヴィテプスク公家出身であり、おそらく父はヴィテプスク公ヴァシリコ・ブリャチスラヴィチ、母はスモレンスク公ダヴィド・ロスチスラヴィチの娘である。
1221年頃、父の後を継いでヴィテプスク公となり、1232年にはポロツク公となった。1239年のルーシの年代記には、ブリャチスラフの娘・アレクサンドラがアレクサンドル・ネフスキーと結婚した際に、ブリャチスラフの父称についての言及がある。
死亡した年は不明である。
妻子
[編集]妻の名は不明である。また子供についての史料は矛盾する箇所が多く、正確な情報が知られるのは娘のアレクサンドラのみである。ブリャチスラフの子といわれるのは以下の人物である。
- アレクサンドラ - アレクサンドル・ネフスキーの妻。なお、アレクサンドラは洗礼名である。
- コンスタンチン? - ポロツク公(1264年、1270年頃 - 1290年頃)
- 娘?(名前不明)- ポロツク公タウトヴィラスの妻。
- イジャスラフ?(? - 1264年頃)- ヴィテプスク公(1264年)
- ヴァシリコ?(? - 1297年)- ヴィテプスク公(1264年以降 - 1297年)
参考文献
[編集]- Алексеев Л. В. Полоцкая земля // Древнерусские княжества X—XIII вв. — М., 1975. — С. 202—239.
- В. В. Богуславский. Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. — М.: ОЛМА-ПРЕСС, 2001. — Т. 2. — 784 с.
- Войтович Леонтій. Рюриковичі. Ізяславичі полоцькі // Князівські династії Східної Європи (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль. Історико-генеалогічне дослідження.. — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000. — 649 с.