ブリタンニクス
ブリタンニクス(Britannicus, 41年2月12日 - 55年2月11日)、本名ティベリウス・クラウディウス・カエサル・ブリタンニクス(Tiberius Claudius Caesar Britannicus)は、ローマ帝国第4代皇帝クラウディウスと3番目の妻メッサリナの息子。第5代皇帝ネロの義理の弟にあたり、ネロの最初の妻クラウディア・オクタウィアの弟である。
生涯
[編集]クラウディウスの息子「ゲルマニクス」として41年に生まれる。3歳の時の44年に父クラウディウスはブリタンニアを属州とし、ローマで凱旋式を挙行した。このブリタンニア遠征の戦勝を記念して「ブリタンニクス」の名が与えられ、以後この名で呼ばれる。
48年10月に母メッサリナは、クラウディウスがローマを留守とした際に浮気相手であったガイウス・シリウスと正式の結婚式を行った。この結婚は皇帝への反逆と考えられたため、2人はすぐに拘束され、母は父によって処刑された。
一人身となったクラウディウスは49年に姪である小アグリッピナと結婚し、ブリタンニクスは新しい母と共に、小アグリッピナの連れ子で3歳年上の義理の兄ルキウス・ドミティウス・アヘノバブルスを迎えることになった。それまで皇帝の唯一の男子の地位は帝位の継承を約束していたが、継母とその連れ子の存在はその帝位継承を危うくさせるものであった。
事実、息子を皇帝にと望む小アグリッピナは、ブリタンニクスの姉オクタウィアと息子を婚約させ、さらに50年2月25日には息子をクラウディウスの養子とした。このときから小アグリッピナの息子は「ネロ」と呼ばれるようになる。法的地位でネロはブリタンニクスと同格となったが、51年に皇帝の公式相続人となるなど、徐々に帝位の継承者としてブリタンニクスを凌駕するようになっていった。そして54年に父クラウディウスが死去すると、皇帝位にはブリタンニクスではなく義理の兄ネロがついた。
ネロが皇帝になると、先帝の血を引いていたブリタンニクスの立場は非常に危ういものとなっていった。55年、ブリタンニクスはネロによって晩餐の最中に暗殺された。その際ネロはてんかんの発作であると語ったという。13歳で、あと1日で14歳を迎えるはずであった。遺体は皇帝廟に祀られたが、ユリウス=クラウディウス朝ではブリタンニクスが最後に祀られた人物となった。
死後
[編集]ブリタンニクスの死により、クラウディウスの男系子孫は断絶。女系子孫もブリタンニクスの同母姉クラウディアがネロによって処刑されたことや異母姉クラウディア・アントニア(30年 - 66年、ガイウス・ポンペイウス・マグヌス(47年没)と結婚。後にファウストス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(22年 - 62年)との間に男子を儲けるが夭折)が66年に死去するなど、非常に短命であった。 スエトニウスによれば、クラウディウスは配下の有能な将軍であったウェスパシアヌスの息子ティトゥスを宮廷で養育させていて、ブリタンニクスにとって2歳年長のティトゥスは仲のよい友人であった。のちにティトゥスはローマ皇帝になるが、彼は過去を振り返り、ブリタンニクスが殺された晩のことを覚えていると述べている。さらに彼が盛られた毒を少し口にして、長い間病に臥せっていたとも言っている。ティトゥスは仲のよかった友人の追憶にブリタンニクスの像を建て、コインを発行したという。
17世紀の劇作家ジャン・ラシーヌは『ブリタニキュス』という悲劇を書いている。
系図
[編集]関連作品
[編集]- 書籍
- 藤本ひとみ『愛してローマ夜想曲』