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ブラウンロー・セシル (第2代エクセター侯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1860年代の第2代エクセター侯爵、ウィリアム・エドワード・キルバーン英語版撮影。

第2代エクセター侯爵ブラウンロー・セシル英語: Brownlow Cecil, 2nd Marquess of Exeter KG PC1795年7月2日1867年1月16日)は、イギリスの貴族、政治家。1795年から1804年までバーリー卿儀礼称号を使用した[1]。廷臣で保守党に属し、第1次ダービー=ディズレーリ内閣英語版宮内長官英語版(1852年)を、第2次ダービー=ディズレーリ内閣英語版王室家政長官英語版(1858年 – 1859年)を務めた[1]

生涯

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初代エクセター侯爵ヘンリー・セシルと2人目の妻サラ英語版(1773年6月28日洗礼 – 1797年1月18日、トマス・ホギンズの娘)の次男(長男ヘンリーは1793年に生まれ、同年に夭折)として、1795年7月2日に生まれ、同日にバーリー・ハウス英語版で洗礼を受けた[1]。1804年5月1日に父が死去すると、エクセター侯爵位を継承した[1]。1807年ごろから1810年までイートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1811年9月3日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学、1814年にM.A.の学位を修得した[2]

1821年のジョージ4世戴冠式英語版に出席した[1]。1826年10月7日にラトランド統監英語版に任命され、1867年に死去するまで務めた[3]。1827年5月10日、ガーター勲章を授与された[1][4]

1835年7月6日にケンブリッジ大学よりLL.D.の名誉学位を授与された[1]

1841年9月14日に枢密顧問官王配アルバート宮内官英語版に任命され[5]、1846年に宮内官を退任した[1]

1842年1月22日にノーサンプトンシャー統監英語版に任命され、1867年に死去するまで務めた[3]

1844年にヴィクトリア女王と王配アルバートがバーリー・ハウスを訪れ、エクセター侯爵は2人の接待に巨額を費やした[1]。ほかにも競馬により出費が重ね、多くの債務を残した[1]

第1次ダービー=ディズレーリ内閣英語版では1852年2月から12月まで宮内長官英語版を務め[6][7]第2次ダービー=ディズレーリ内閣英語版では1858年2月から1859年6月まで王室家政長官英語版を務めた[8][9]

1867年1月16日にバーリー・ハウスで死去、24日にスタンフォード英語版セント・マーティン教会英語版に埋葬された[1]。長男ウィリアム・アレインが爵位を継承した[1]

家族

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エクセター侯爵夫人イザベラの肖像画。ウィリアム・ジョン・ニュートン英語版画、1830年。

1824年5月12日、イザベラ・ポインツ英語版(1803年2月6日 – 1879年3月6日、ウィリアム・スティーブン・ポインツ英語版の娘)と結婚[1]、6男4女をもうけた[10]ウォルター・スコットによれば、イザベラは活発で素直、かつ礼儀正しい美人だったという[1]

  • ウィリアム・アレイン(1825年4月30日 – 1895年7月14日) - 第3代エクセター侯爵[1]
  • ブラウンロー・トマス・モンタギュー(1827年2月27日 – 1905年5月22日) - 1854年8月24日、シャーロット・アレクサンドリナ・メイベラ・カリー(Charlotte Alexandrina Mabella Curry、1888年10月7日没、エドワード・トムソン・カリーの娘)と結婚。1896年5月12日、ステラ・ランダル(Stella Randall、ウィリアム・ランダルの娘)と再婚、子供なし[11]
  • イザベラ・メアリー(1830年7月14日 – 1830年9月[10]
  • メアリー・フランシス(1832年1月6日[10] – 1917年7月27日) - 1861年10月8日、第3代ハロービー伯爵ダドリー・ライダー英語版と結婚、子供なし[11]
  • エドワード・ヘンリー(1834年12月25日 – 1862年9月12日) - 海軍軍人[11]
  • ドロシー・アン(1837年4月10日 – 1837年5月5日[10]
  • ヘンリー・ポインツ(1838年10月10日 – 1858年11月19日[10]
  • 男子(1839年12月28日[10]
  • アデルバート・パーシー(1841年7月18日 – 1889年6月12日) - 陸軍軍人、オンタリオ湖で溺死[10]
  • ヴィクトリア(1843年11月9日[10] – 1932年2月22日) - 1866年12月15日、第8代カーベリー男爵ウィリアム・エヴァンス=フリークと結婚、子供あり[11]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1926). The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 222–223.
  2. ^ "Cecil, Brownlow, Marquess of Exeter. (CCL811B)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  3. ^ a b Sainty, John Christopher (1979). List of Lieutenants of Counties of England and Wales 1660–1974 (英語). London: Swift Printers (Sales).
  4. ^ "No. 18360". The London Gazette (英語). 11 May 1827. p. 1033.
  5. ^ "No. 20019". The London Gazette (英語). 17 September 1841. pp. 2315–2316.
  6. ^ "No. 21297". The London Gazette (英語). 2 March 1852. p. 670.
  7. ^ "No. 21403". The London Gazette (英語). 18 January 1853. p. 137.
  8. ^ "No. 22106". The London Gazette (英語). 2 March 1858. p. 1207.
  9. ^ "No. 22278". The London Gazette (英語). 21 June 1859. p. 2419.
  10. ^ a b c d e f g h Lodge, Edmund, ed. (1902). The Peerage and Baronetage of the British Empire as at Present Existing (英語) (71st ed.). London: Hurst and Blackett. p. 275.
  11. ^ a b c d Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth Peter, eds. (1934). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage (英語). Vol. 1 (92nd ed.). London: Burke's Peerage, Ltd. p. 931.

外部リンク

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公職
先代
ブレダルバン侯爵
宮内長官英語版
1852年
次代
ブレダルバン侯爵
先代
セント・ジャーマンズ伯爵英語版
王室家政長官英語版
1858年 – 1859年
次代
セント・ジャーマンズ伯爵英語版
宮廷職
先代
ロバート・グローヴナー卿英語版
王配アルバート宮内官英語版
1841年 – 1846年
次代
アバコーン侯爵
名誉職
先代
ウィンチルシー伯爵英語版
ラトランド統監英語版
1826年 – 1867年
次代
ゲインズバラ伯爵英語版
先代
ウェストモーランド伯爵
ノーサンプトンシャー統監英語版
1842年 – 1867年
次代
サウサンプトン男爵英語版
イギリスの爵位
先代
ヘンリー・セシル
エクセター侯爵
1804年 – 1867年
次代
ウィリアム・アレイン・セシル