フリードリヒ・ツー・シャウムブルク=リッペ
フリードリヒ Friedrich | |
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シャウムブルク=リッペ家 | |
出生 |
1868年1月30日 オーストリア=ハンガリー帝国、ラティボジツェ城 |
死去 |
1945年12月12日(77歳没) ポーランド、シレジア、クドヴァ=ズドゥルイ |
配偶者 | ルイーセ・ア・ダンマーク |
アントイネッテ・フォン・アンハルト | |
子女 |
マリー・ルイーゼ クリスティアン シュテファニー レオポルト ヴィルヘルム |
父親 | ヴィルヘルム・ツー・シャウムブルク=リッペ |
母親 | バティルディス・フォン・アンハルト=デッサウ |
フリードリヒ・ツー・シャウムブルク=リッペ(Friedrich Prinz zu Schaumburg-Lippe, 1868年1月30日 - 1945年12月12日)は、ドイツの諸侯家門シャウムブルク=リッペ家の侯子。ボヘミアのナーホト最後の領主だった。
生涯
[編集]シャウムブルク=リッペ侯ゲオルク・ヴィルヘルムとヴァルデック=ピルモント侯女イーダ夫妻の次男ヴィルヘルムと、その妃でアンハルト=デッサウ公子フリードリヒ・アウグストとヘッセン=カッセル方伯女マリー夫妻の娘であるバティルディスの間の第3子、次男。ボヘミアのラティボジツェ城(現在のチェコ)で生まれた。全名はフリードリヒ・ゲオルク・ヴィルヘルム・ブルーノ(Friedrich Georg Wilhelm Bruno)。
1896年5月5日にコペンハーゲンのアマリエンボー宮殿にて、デンマーク王太子フレゼリク(のちのフレゼリク8世)とスウェーデン王女ロヴィーサ夫妻の娘で又従妹にあたるルイーセと結婚し、3人の子女をもうけた。結婚は不幸なものとなった。ルイーセはデンマークの家族のもとに訪れて多くの時間を過ごし、一度に3か月程滞在した。フレゼリク8世も毎年娘を訪ねて来ていた。ルイーセは1906年4月4日にラティボジツェ城で亡くなった[1]。公的な死因は数週間の闘病後、髄膜炎によって引き起こされた脳の炎症となっている。実際の所はラティボジツェ城の湖で入水自殺を企てて風邪をひき、結果的に死に至ったと噂された。
1909年5月26日にデッサウにおいて、アンハルト公世子レオポルトとヘッセン=カッセル方伯女エリーザベト夫妻の娘アントイネッテ(1885年 - 1963年)と再婚し、2人の息子をもうけた。
子女
[編集]最初の妻ルイーセとの間に1男2女の3人の子女をもうけた。
- マリー・ルイーゼ・ダグマール・バティルディス・シャルロッテ(1897年 - 1938年) - 1916年、プロイセン王子フリードリヒ・ジギスムントと結婚
- クリスティアン・ニコラウス・ヴィルヘルム・フリードリヒ・アルベルト・エルンスト(1898年 - 1974年) - 1937年、デンマーク王女フェオドラと結婚
- シュテファニー・アレクサンドラ・ヘルミーネ・ティーラ・クセニア・バティルディス・インゲボルク(1899年 - 1925年) - 1921年、ベントハイム=シュタインフルト侯ヴィクトル・アドルフ[注釈 1]と結婚
2番目の妻アントイネッテとの間に2人の息子をもうけた。
- レオポルト・フリードリヒ・アレクサンダー・ヴィルヘルム・エドゥアルト(1910年 - 2006年) - 1933年、エアバッハ=シェーンベルク侯女ヘレーネ・ゾフィー[注釈 2]と結婚
- ヴィルヘルム・フリードリヒ・カール・アドルフ・レオポルト・ヒルデリヒ(1912年 - 1938年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ヴァルデック=ピルモント侯女パウリーネの息子でヴァルデック=ピルモント侯ゲオルク・ヴィクトルの孫。
- ^ エアバッハ=シェーンベルク侯アレクサンダーの娘で、マリー・フォン・バッテンベルクの孫。
出典
[編集]- ^ Wilhelm Prinz zu Schaumburg-Lippe von Otto Elster, S. 132-133
参考文献
[編集]- Otto Elster: Wilhelm Prinz zu Schaumburg-Lippe - Ein Bild seines Lebens und Wirkens. Neustadt an der Mettau 1906 (Online-Version)
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、フリードリヒ・ツー・シャウムブルク=リッペに関するカテゴリがあります。