フリッツ・タウロウ
フリッツ・タウロウ Frits Thaulow | |
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制作中のフリッツ・タウロウ | |
生誕 |
1847年10月20日 ノルウェー クリスチャニア(現オスロ) |
死没 |
1906年11月5日(59歳没) オランダ フォレンダム |
国籍 | ノルウェー |
出身校 | バーデン美術学校 |
著名な実績 | 風景画 |
運動・動向 | 写実主義 |
フリッツ・タウロウ(Frits Thaulow, 1847年10月20日 - 1906年11月5日)は、ノルウェーの画家。
生涯
[編集]1847年、現オスロに当たるクリスチャニアで生まれた。父は裕福な薬剤師、ハラルド・タウロウ(1815-81年)。母はニコライン・ルイーズ・ムンク (Nicoline Louise Munch, 1821-94年)[1]。
1870年から1872年まで、コペンハーゲンの美術学校で学び、1873年から1875年まで、ドイツ・カールスルーエのバーデン美術学校で画家ハンス・ギューデ(Hans Gude)に師事した。その後、パリで3年を過ごし、そこで学んでいた北欧出身の画家たちと親交を深めた[1]。
1879年、友人の画家クリスチャン・クローグとともに、ユトランド半島のスカーゲンを訪れ、漁師や船を多く描いた[2][3]。
1880年、ノルウェーに帰国すると、クリスチャン・クローグ、エーリック・ヴァーレンショルドとともに、新進気鋭の画家として活躍した。1882年の芸術家秋季展(1884年から官立秋季展)設立にも貢献した。1883年には、モードゥムで若い画家を集めて野外アカデミーを開いた。タウロウの風景画は、オースゴールストランで描かれたものが多く、同地は、1880年代以降、多くの画家・芸術家が集まる町となった。そのほか、1885年までの間、クラーゲリョー、パリ、コペンハーゲン、スコットランド、ヴェネツィアなど各地を訪れている。その後は、主にノルウェー各地で風景画を描いた[1]。
1892年、フランスに移ったが、パリの街は肌に合わず、モントルイユ(1892-94年)、ディエップとその周辺の村(1894-98年)、ブルターニュのカンペルレ(1901年)、コレーズ県ボーリュー=シュル=ドルドーニュ(1903年)などの小さな町を巡りながら制作を続けた[1]。ディエップでは、オーブリー・ビアズリーと親交を持った。
1905年、ノルウェー政府から聖オラヴ章を受章。フランス政府からはレジオンドヌール勲章、イタリア政府からは聖マウリッツィオ・ラザロ勲章、チュニジア政府からも栄誉章を受章している。
1906年、オランダのフォレンダム(エダム=フォレンダム自治体の町)で死去した。
家族
[編集]1874年、Ingeborg Charlotte Gad(1852–1908年)と結婚したが、1886年、離婚した。同じ年、著名な弁護士の娘、Alexandra Lasson(1862–1955年)と再婚した。再婚後、3人の子供をもうけた[1]。
作品
[編集]オスロ国立美術館が作品37点を収蔵するほか、エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)、ボストン美術館、ハーバード大学美術館などに収蔵されている。
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「フレデリク・コレットの肖像」(1875年)
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「ノルウェーの冬の風景」(1890年)
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「夜の雰囲気」(1893年)
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「ヴェローナのピエトラ橋」(1894年)
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「ヴェネツィア」(1894年)
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「ディエップの夜」(1894-1898年)
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「ディエップとアルク川から」(1895年)
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「ノルマンディーのお城」(1895年)
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「ディエップの月明かり」(1896年)
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「Akerselva川から」(1897-1901年)
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「ドルドーニュ川」(1903年)
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「パリのマドレーヌ大通り」(1896-1897年)
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「大理石の階段」(1903年)
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「ボーリューの月明かり」(1904年)
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「マルボ広場」(1904年)
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「ドルトレヒト」(1905年)
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「ヴェネツィアのリアルト橋」
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「ヴェネツィアの眺め」
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「司祭」
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「パリの冬」
脚注
[編集]- ^ a b c d e “Frits Thaulow” (ノルウェー語). Norsk biografisk leksikon. 2016年10月8日閲覧。
- ^ “Frits Thaulow” (英語). Go Norway. 2016年10月8日閲覧。
- ^ “Frits Thaulow” (英語). Blomqvist. 2016年10月8日閲覧。