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フリオ・アルベルト・モレーノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フリオ・アルベルト
名前
本名 フリオ・アルベルト・モレーノ・カサス
Julio Alberto Moreno Casas
ラテン文字 Julio Alberto
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1958-10-07) 1958年10月7日(66歳)
出身地 カンダス英語版
身長 177cm
体重 68kg
選手情報
ポジション DF (LSB)
利き足 左足
ユース
スペインの旗 アトレティコ・マドリード
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1977-1978 スペインの旗 アトレティコ・マドリレーニョ 2 (0)
1978-1982 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 67 (2)
1979-1980 スペインの旗 レクレアティーボ (loan) 8 (1)
1982-1991 スペインの旗 バルセロナ 202 (9)
通算 279 (12)
代表歴
1978  スペイン U-21 4 (0)
1982  スペイン U-23 1 (0)
1984-1988 スペインの旗 スペイン 34 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フリオ・アルベルト・モレーノ・カサスJulio Alberto Moreno Casas1958年10月7日 - )は、スペインアストゥリアス州カンダス英語版出身の元サッカー選手スペイン代表であった。現役時代のポジションはディフェンダー(左サイドバック)。

経歴

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クラブ

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アストゥリアス州カンデスに生まれたが、アトレティコ・マドリードの下部組織で育った。若手時代は出場機会を得るのに苦労し、1979-80シーズンにはセグンダ・ディビシオン(2部)のレクレアティーボ・ウェルバにレンタル移籍した。1980年にアトレティコに復帰すると、正式にトップチームに昇格し、1980-81シーズンと1981-82シーズンにはリーグ戦計59試合に出場した。

1982年にFCバルセロナに移籍し、在籍した9シーズンで9個のタイトルを獲得した。1982-83シーズンにはコパ・デル・レイコパ・デ・ラ・リーガのカップ戦2冠を達成し、1983年にはスーペルコパ・デ・エスパーニャで優勝。1984-85シーズンには中心選手としてプリメーラ・ディビシオン(1部)優勝に貢献し、1985-86シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、準決勝のユヴェントスFC(イタリア)戦(1-0)で決勝点を挙げた。決勝のFCステアウア・ブカレスト(ルーマニア)戦にも先発出場したが、PK戦で敗れて準優勝に終わった。1988年にヨハン・クライフが就任すると、エル・ドリーム・チームでは大きく出場機会を減らし、1988-89シーズンからの3シーズンで計29試合しか出場できなかった。特に1990-91シーズンは3試合の出場に終わり、クラブはリーグ優勝を果たしたが、フリオ・アルベルトはシーズン終了後に現役引退した。

代表

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1984年2月29日、アウェーで行われたルクセンブルクとの親善試合(1-0)でスペイン代表デビューし、その試合で両チーム唯一のイエローカードを提示された。同年夏にはUEFA欧州選手権1984本大会に出場し、全試合に出場して準優勝に貢献。1986年には1986 FIFAワールドカップに出場した。スペイン代表としては1988年までに34試合に出場した。

現役引退後

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現役引退後は酷い鬱症状に悩まされ、深刻な薬物依存症に陥った[1]が、やがて症状は改善した。

タイトル

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クラブ

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FCバルセロナ

代表

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スペイン代表

脚注

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  1. ^ Julio Alberto Moreno / Exfutbolista : "Mi partido contra la droga será eterno" La Voz de Asturias、2004年3月21日 (スペイン語)

外部リンク

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