フラッピング
フラッピング(英: flapping)とは、母音に挟まれた歯茎音/t/, /d/, /n/が有声歯茎たたき音およびはじき音 [ɾ] に変化する音声現象のことである。一般に、アメリカ英語における顕著な発音変化として知られている。
概要
[編集]英語では、とある条件下において、無声歯茎破裂音 /t/, 有声歯茎破裂音 /d/, 歯茎鼻音 /n/ が非常に速く調音されることがある[1]。これにより有声歯茎たたき音およびはじき音 [ɾ] のような発音に、日本語話者にとっては「日本語の『ラ行』の子音」のように聞こえる[2]。この音声現象を一般にフラッピング(flapping)またはタッピング(tapping)といい、これによって生じる音を弾音(flap)またはたたき音(tap)という。
名称
[編集]日本語で「弾音化」と呼ぶこの現象について、フラッピング(flapping)とタッピング(tapping)のどちらを名称として用いるべきか、音声学者の間で議論が起こっている。
1つは「調音点」を基準とするもの。この場合、フラッピングの調音点は「後部歯茎(retroflex)」となり、タッピングの調音点は「歯茎(alveolar)」となる。
2つ目は「能動調音器官の動き」を基準とするもの。つまり舌がどの方向に動くかによって区別されるとしている。この場合、後述する『調音方法』にあるとおりに分類できる。Ladefoged(2006)は、この基準を支持している[3]。
なお、音声学においては、伝統的に「フラッピング」という用語が用いられている。また、国際音声記号の一覧表ではtap and flapと併記されている。
生起環境
[編集]ここでは、tの弾音化(t-flapping / t-tapping)について解説する。一般的に広く知られている、tの弾音化が生じる条件(生起環境)とは主に以下の2つである[4][5]。但し、以下の条件に合致していても、弾音化が生じない場合がある事に注意されたい。
- 1語内で起きる弾音化
/t/ が2つの母音に挟まれている場合。但し、/t/ に後続する母音は、アクセントがない場合に限る。e.g., water, better
- 2語に跨る形で起こる弾音化
/t/ が単語の境界を越えて、2つの母音に挟まれている場合。e.g, get up, shut up
上記で挙げた4つの例では、1語内で起きる場合も、2語に跨る場合も、どちらも母音に挟まれていることを条件とするため、この /t/ をintervocalic-tと呼ぶことが多い。1語内で起きる弾音化の場合、/t/ に後続する母音には、アクセントがあってはならない。一方、2語に跨る形で起こる弾音化の場合、/t/ に後続する母音には、アクセントがあっても無くても良い。
調音方法
[編集]ここでは、tの弾音化について解説する。音声学上、弾音化された /t/ は、舌尖や舌端が歯茎から非常に速く離れ、受動調音器官(歯茎)と能動調音器官(舌尖・舌端)の接触が非常に短くなる[1]。また、「たたき音(tap)」と「はじき音(flap)」で舌の動かし方が異なる。
- たたき音(tap)
舌の上下運動によって発音される。
- はじき音(flap)
舌を後ろから硬口蓋あたりに当てて発音する。
加えて、たたき音(tap)やはじき音(flap)の発音の仕方とは異なる弾音も存在する。例えば、better /betər/ の /t/ の音は、後ろに /r/ の音がある関係で、はじき音の舌の動きとは逆になり、舌を前から硬口蓋あたりに当てて、後ろに送らせて発音する。
分布
[編集]アメリカ英語
[編集]弾音化はアメリカ英語によく見られる。それは、例えば友人や親子の会話など、カジュアルな場面だけに留まらず、実際には演説や議会討論等、正式な場でも用いられる。
イギリス英語
[編集]イギリス英語では弾音化は起こらない、ということが一般的によく知られている。実際、イギリス英語では弾音化が発生する条件下にある /t/ は、明瞭に発音される傾向にある。
しかし、イギリスの一部の方言においては、弾音化の使用が示唆されている。例えば、Lindsey(2019: 69)は、at, get, it, not, what などの短い単語の語末にある /t/ のすぐ後に母音が続くとき、弾音化が生じる可能性を指摘している[6]。
- 有声歯茎たたき音およびはじき音: [ɾ]
特定の発音を強調するために、一般アメリカ英語(General American)を取り扱う英語音声学の書籍の中には、tの弾音化を [ɾ] と表記するものがある。
- 有声歯茎閉鎖音: [d]
英語母語話者の耳には、tの弾音化した異音が、無声歯茎破裂音 /t/ の音素とは全く違う別の音素ではなく、有声歯茎破裂音 /d/ の音素の変種のひとつとして聞こえることがあるため、その可能性を示唆するために、[d] の表記を使用することがある。
- 無声歯茎閉鎖音に有声化の補助記号が付いたもの: [t̬]
Wells(2008)と Jones et al.(2011)では、無声歯茎破裂音 /t/ を国際音声字母の「有声化(voiced)」を示す補助記号 [ ̬ ] と組み合わせて、[t̬] という音声表記を採用している。この音声表記には、音声表記を転写する際に正書法との違和感がないことや、同じ単語を異なる音韻の文脈で使用する際に、同じような記号を使用できるという利点がある。
このことから、/t/ の弾音化を「tの有声化(t-voiced)」と表記する書籍もあるが、弾音化と有声化を同一視するべきか否かについては、現在でも音声学者の間で意見が分かれている。
tの声門閉鎖音化との関係
[編集]tの声門閉鎖音化とtの弾音化は、いわゆる「相補分布」の関係にある。つまり、tの弾音化が出現する環境では、tの声門閉鎖音化は出現せず、tの声門閉鎖音化が出現する環境では、tの弾音化は出現しない。
代表例
[編集]- water
- party
- better
- butter
- item
- quarter
- later
- little
- winter
- editor
- not at all
脚注
[編集]- ^ a b Carley, Paul; Inger M. Mees (2019). American English Phonetics and Pronunciation Practice. Routledge. pp. 19-20
- ^ 厳密には、有声歯茎たたき音およびはじき音と日本語のラ行の子音/r/は調音位置が違う。前者の方が前寄りである。
- ^ A Course in Phonetics (5 ed.). Boston: Thomson Wadsworth. (2006). p. 171
- ^ 松坂ヒロシ『英語音声学入門』研究社出版、1986年、130-133頁。
- ^ 竹林滋、斎藤弘子『英語音声学入門』(新装版)大修館書店、2008年、86頁。
- ^ Lindsey, Geoff. (2019). English after RP: Standard British Pronunciation Today. Palgrave Macmillan. p. 69
- ^ Wells, John. C. (1982). Accents of English, Vol. 1 Introduction. Cambridge University Press. pp. 248-252