フトゥッワ
フトゥッワ(アラビア語: فتوة, Futuwwa)とは、中世イスラームの任侠結社、若者組[1]。トルコではアヒー(akhī)という[1]。
特徴
[編集]フトゥッワは都市部の若い男性からなる集団で、戦闘的性格とともに勇敢さ、寛容さ、客人のもてなし、といった倫理、道徳規範を有していた[1]。
歴史
[編集]フトゥッワはイスラム以前のジャーヒリーヤ時代(5世紀〜7世紀)の伝統を受け継いだものといわれる[2]。
アイヤール 9世紀〜11世紀
[編集]9世紀のアッバース朝時代、イラン東部に現れ、任侠集団アイヤール('ayyār)が登場し、サッファール朝を建国した[1]。アイヤールのほかにはフィトヤーン、シュッタール、アフダース(aḥdāth)といった名前の集団もある[3]。
その後、スーフィズム、タリーカ(道)教団の影響を受けた[1]。
13世紀
[編集]13世紀アッバース朝カリフのナースィル・リ・ディーニッラー(1158 -1225)は、フトゥッワ集団の長でもあった[1]。
イブン・バットゥータによれば、フトゥッワは当時のトルコ、イランの都市に存在し、トルコではアヒー(akhī)と呼ばれ、市場の商人、職人層の若者から構成され、治安維持もおこなう自警団的な性格も持っていた[1]。アヒーは仕事のあと、修道施設ザーウィヤ(zāwiya)に集い、ズィクル(dhikrけ唱名)など修行を行った[1]。
ルーム・セルジューク朝首都コンヤでは、アヒー集団はメヴレヴィー教団のスーフィーと関係し、イスラーム法官カーディーに従っていた[1]。
シーア派との関係:アリー崇拝
[編集]またシーア派の初代イマームであるアリー・イブン・アビー・ターリブ(600 - 661)を崇拝していた(アリー崇拝)[1]。
アリー崇拝は、異教徒との聖戦において勇敢さと潔さを発揮し、フトゥッワの徳目の象徴となった[1]。
またタリーカ教団のアリー崇拝とともにシーア派の土壌となった[1]。
フトゥッワト・ナーメ
[編集]フトゥッワの信条や儀礼はフトゥッワト・ナーメ(futuwwat-nāme)という冊子に書かれた[1]。
アブドゥル・アズィーム・ハーン・カリーブ(Mīrzā 'Abd al-'Azīm Khān Qarīb)のフトゥッワト・ナーメでは、フトゥッワはコーランに記載された若者(ファター、fatā)を引用して公的イスラームに起源が求められた[1]。また、同書ではアリーがフトゥッワ指導を行い、ハディースに基づいて謙虚さ、赦し、寛容性、奉仕、助言を美徳とすると書かれている[1]。
現在
[編集]今日でもバーザールや古式闘技道ズール・ハーネ(zūr-khāne)、またシーア派などにおいてフトゥッワは生きているともいわれる[1]。
日本の武士道との類似性
[編集]日本の任侠との類似、またスーフィズムとフトゥッワの関係が、日本の禅と武士道に類似していることも指摘されている[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 世界大百科事典第2版「フトゥッワ」
- 佐野東生「シーア派イスラームとの対話-神秘主義をめぐる日本との共通性を探って-」国際文化研究 17、25-34、2013、龍谷大学
- Rachel Goshgarian,Futuwwa in 13th-century Rum and Armenia: Reform Movements and the Managing of Multiple Allegiances on the Seljuk Periphery,in The Seljuks of Anatolia : court and society in the medieval Middle East,edited by A.C.S. Peacock and Sara Nur Yildiz,I.B.Tauris,2013.