フツーリシュチナ
フツーリシュチナ | ||
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フツーリシュチナの地図(20世紀)
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フツーリシュチナの風景、チョルノホーラ山脈の最高峰ホヴェールラ山から | ||
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チョルノホーラ山脈の山林 | ||
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チョルノホーラ山脈にある住居跡 | ||
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フツーリシュチナの町タターリウ近郊を流れるプルート川 | ||
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フツル共和国の中心となった町ヤスィニャの風景 | ||
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チョルノホーラ山脈からの風景 | ||
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ペトロス峰 | ||
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ホヴェールラ山近くを流れるプルート川 |
フツーリシュチナ(ウクライナ語:Гуцульщина、フツーリシュチナ;ポーランド語:Huculszczyzna、フツルシュチーズナ)は、ウクライナの山岳民族であるフツル人の居住する地域である。イヴァーノ=フランキーウシク州の町コーシウが、行政上および商業的な中心都市となっている。
概要
[編集]フツーリシュチナはウクライナ・カルパト山脈の南西に位置し、ハルィチナー、ブコヴィナ、ザカルパーッチャの一部をなしている。チェレモシュ川とシレト川が合流してプルート川をなし、スチャヴァ川やナドヴィルニャンシカ・ブィストルィツャ川、トィーサ川が流れ出でる。
フツーリシュチナの南北の境は、最高峰と川の流れる険しい渓谷によって形作られている。南部では、ゴルガヌィ山脈とチョルノホーラ山脈が境をなしている。一方、北部ではチウチンスィキ山脈の斜面が境となっている。民族学の見地からフツーリシュチナの北部の境とされるのは、ゼレーナ=デリャトィン=ヤーブルニウ=ピストィニ=コスィウ=クートィ=ヴィジュヌィツャを結ぶ線である。ときには、コロムィーヤ、ナドヴィルナ、ソロトヴィヌィ、モナストィルチャンまでフツーリシュチナに含められる場合もある。西部の境は、デリャトィンのプルート川渓谷全体とナドヴィルニャンスィカ・ブィストルィツャ川の渓谷とされる。東部の境は、ヴィジュヌィツャ=ベレホメト=ムィホヴェ=バヌィリウ=ピドヒルヌィイを結ぶ線とされる。いくつかのフツル人の民族学的特徴は、ルーマニアのマラムレシュの村落にも見られる。
長年に亙って受けてきた分割統治という不自然な行政区分にも拘らず、フツーリシュチナでは何世紀もの間に地域に共通する独自の伝統的秩序、山岳条件、生活様式、羊飼いの法、畜産業、物質面と精神面に及ぶ文化、方言が養成された。近隣から隔たった深山という環境は、フツル人同士での交易を促進した。現在、ルーマニア領ブコヴィナに属する8戸のフツル人住居を除き、フツーリシュチナ全土がウクライナ領となっている。
歴史
[編集]中世
[編集]キエフ大公国の時代には、フツーリシュチナもその支配下に入っていた。キエフ大公国崩壊後の12世紀には、当時ルーシ圏で最大の勢力を誇ったハールィチ・ヴォルィーニ大公国の支配下にあった。14世紀には、カジミェシュ3世によりポーランド王国の領土に組み込まれた。
フツーリシュチナに関する歴史上初の記録となっているのは、15世紀初めに書かれたポーランドの歴史書である。1424年のジャブイェに関する記録がそれである。住民に関する記録は乏しく、ただフツーリシュチナでは農奴制による賦役労働が存在せず、労働に対しては近隣領主から現金または現物での報酬が支払われていたということは明らかにされている。
近代
[編集]17世紀中葉から18世紀にかけて、フツーリシュチナは全土がオプルィーシュクィの支配下にあった。なかでも、1700年代中盤にオレークサ・ドーウブシュが指揮を執った時代には、フツーリシュチナは他のザカルパーッチャやブコヴィナの地方とともにポーランドやウクライナのシュラフタの支配から脱し、実質的な独立状態にあった。公式には、1770年までフツーリシュチナはオスマン帝国領モルダヴィア、ポーランド、ハンガリーの一部となっていた。ポーランド分割の結果、フツーリシュチナの多くの地域はハプスブルク君主国の統治領となった。
その後これらの地方にも農奴制が敷かれたが、これに対し1840年代には、オーストリア帝国領となっていたブコヴィナ・フツーリシュチナにおいて2度の蜂起が行われた。その首班となったのがルキヤーン・コブィルィーツャで、2度目の蜂起を起こした1848年にはオーストリア帝国議会の議員であった。しかし、この蜂起は1849年には鎮圧された。
1911年には、フナート・ホトケーヴィチによりフツル人のアマチュア民衆演劇が行われた。これは東欧の貴族がしばしば行った領民を用いた舞台で、オレークサ・レーメズやレーシ・クールバスの指揮のもとフツル人の農民がフツル方言で演じた。
また、同じ年、ロシア帝国領下にあった北ウクライナのチェルニーヒウでは、フツーリシュチナを舞台にした中編小説『忘れられた祖先の影』がムィハーイロ・コツュブィーンシクィイによって発表された。この小説は、彼の生誕100周年となる1964年にセルゲイ・パラジャーノフによって映画化された(邦題『火の馬』)。
独立運動
[編集]フツーリシュチナの民族社会生活において最も重要な出来事となったのが、20世紀初頭のウクライナ急進党の結成、ウクライナ・シーチ銃兵隊の戦い、そしてロシア革命後の独立運動であった。
ウクライナ急進党はムィハーイロ・ドラホマーノウやイヴァーン・フランコーの指導のもと1890年にリヴィウにて結成され、のちウクライナ民族ラーダに加わり西ウクライナ人民共和国の中枢機関となった。
第一次世界大戦中の1914年から1915年にかけては、オーストリア・ハンガリー帝国下でウクライナ・シーチ銃兵隊が結成され、同国軍のウクライナ人精鋭部隊としてブコヴィナに侵攻したロシア帝国軍と戦った。一時西ウクライナはロシア帝国軍によって占領されたが、1915年にはオーストリアにより奪還、その後はロシア革命まで膠着状態が続いた。
西ウクライナ人民共和国のウクライナ・ハルィチナー軍はフツーリシュチナでも活発に活動を行い、ポーランドに追われてのちは赤ウクライナ・ハルィチナー軍となって赤軍とともにポーランドと戦った。1918年にはヤーシニャにてフツル共和国の建国が宣言され、その後1920年にボリシェヴィキと結託したポーランドに敗れるまで、フツーリシュチナは積極的に独立運動に参加した。第一次世界大戦とポーランド・ソヴィエト戦争ののち締結されたサン=ジェルマン条約により、1920年から1939年までの間、フツーリシュチナはルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキアに分割された。
1939年にはナチス・ドイツとソ連がポーランドを分割したことから、ポーランド領になっていた大部分のフツーリシュチナはソ連領となった。1940年にはブコヴィナに編入され、1945年にはザカルパーッチャに改編された。残る地域は、戦時中はハンガリーやルーマニアに併合されていた。
第二次世界大戦後はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の地方となり、近代になって初めて、フツーリシュチナのほぼ全土がひとつの国家のもとにまとめられた。しかし、戦後も1950年代後半まで、西ウクライナでは反ポーランド・反ソ連組織であるウクライナ蜂起軍による独立のための武力闘争が活発に行われ、フツーリシュチナもその勢力圏となった。ソ連軍はウクライナ蜂起軍に対し徹底的な掃討作戦を実施し、フツーリシュチナでも多くの村がその犠牲となったとされる。
1991年にウクライナが独立したのに伴い、フツーリシュチナは独立ウクライナの地方となった。
フツル・カルパト山脈の主な高峰
[編集]2000 m以上の峰
- ホヴェールラ山(Говерла) - チョルノホーラ山系 - 2061 m
- ブレベネスクル(Бребенескул) - チョルノホーラ山系 - 2036 m
- ピープ=イヴァーン(Піп-Іван) - チョルノホーラ山系 - 2026 m
- ペトロス峰(Петрос) - チョルノホーラ山系、ザカルパーッチャ・フツーリシュチナ - 2020 m
- フトィン=トムナトィク峰(Гутин-Томнатик) - チョルノホーラ山系 - 2018 m
- レブラ峰(Ребра) - チョルノホーラ山系 - 2007 m
- ムンチェル峰(Мунчел) - チョルノホーラ山系 - 2002 m
主な河川
[編集]- トィーサ川(Тиса) - 966 km
- プルート川(Прут) - 910 km
- セレト川(Сірет / Серет) - 726 km
- ナドヴィルニャンシカ・ブィストルィツャ川(Бистриця Надвірнянська) - 94 km
- チェレモシュ川(Черемош) - 80 km
- ピストィンカ川(Пістинка) - 56 km
- ルィーブヌィツャ川(Рибниця) - 54 km
- 白チェレモシュ川(Білий Черемош) - 51 km
- 黒トィーサ川(Чорна Тиса) - 50 km
- リューチュカ川(Лючка) - 42 km
- 白トィーサ川(Біла Тиса) - 26 km
ギャラリー
[編集]-
ゴルガヌィ山脈のフローファ峰
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フツーリシュチナの町ヴォローフタ近郊を流れるプルート川
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ラヒウ近郊を流れるトィーサ川
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ラヒウ近郊を流れるトィーサ川
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フツーリシュチナの町プィルィペツィの住居の様子
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プィルィペツィの新しい教会
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ヤスィニャからイヴァーノ=フランキーウシク間を走るウクライナ鉄道
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ラヒウにあるヨーロッパの中央を示す碑
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フツーリシュチナで用いられた十字架
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19世紀後半のフツル人
参考文献
[編集]- 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
外部リンク
[編集]- Довідник з історії України. За ред. І. Підкови та Р. Шуста. — Київ: Генеза, 1993.
- KOSIV ART / Гуцульщина /
- KOSIV ART / Легенда про Гуцульщину(フツーリシュチナの伝説) /
- KOSIV ART / Вершини Гуцульських Карпат(フツル・カルパト山脈の高峰) /
- KOSIV ART / Найбільші ріки Гуцульщини(フツーリシュチナの大河) /
- Національний природний парк «Гуцульщина»