フセスラフ・ヴァシリコヴィチ
フセスラフ・ヴァシリコヴィチ Усяслаў Васількавіч | |
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ヴィテプスク公 ポロツク公 | |
在位 |
ヴィテプスク公:1132年 - 1162年、1175年以降 - 1178年、1180年以降 - 1186年頃 ポロツク公:1162年 - 1167年、1167年 - 1175年以前、1178年 - 1180年以降 |
死去 |
1186年頃 |
子女 |
ダヴィド 娘(ウラジーミル大公ヤロポルク妃) ?ウラジーミル |
家名 | リューリク家 |
父親 | ポロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラヴィチ |
母親 | スモレンスク公・キエフ大公ロマンの娘 |
フセスラフ・ヴァシリコヴィチ(ベラルーシ語: Усяслаў Васількавіч、? - 1186年頃)は、ヴィテプスク公家出身のポロツク公である。ヴァシリコ・スヴャトスラヴィチの子[1]。ヴィテプスク公:1132年 - 1162年[1]、1175年以降 - 1178年、1180年以降 - 1186年頃。ポロツク公:1162年[1] - 1167年、1167年 - 1175年以前、1178年 - 1180年以降。
経歴
[編集]フセスラフの在位期間は、ポロツク公国内部の分領公国が争っていた時期にあたる。1162年、この闘争の時代のポロツクの政権を、ドルツク公ログヴォロドとミンスク公ロスチスラフが掌握した。そこでフセスラフはスモレンスク公(後にキエフ大公)ロマンの娘を娶り、スモレンスク軍と連合して遠征を行い、1164年にヴィテプスク公国をダヴィド(スモレンスク公家の出身)に引き渡した。
1167年、ミンスク公ヴォロダリによってポロツクから追放されるが、ヴォロダリがヴィテプスクへの遠征には失敗したことで、再びポロツク公に復帰した。
1179年、ノヴゴロド公ムスチスラフがポロツクへの遠征を計画したが、彼の兄のロマン(上記の、フセスラフの妻の父。)が警告を与え、子のムスチスラフを長としたスモレンスク軍を、フセスラフの援軍に派遣した。
しかし、ヴィテプスク公ダヴィドが追放され、その地位をフセスラフの弟のブリャチスラフが奪ったことで、ポロツクとスモレンスクとの関係は悪化した。なお、おそらく1186年に、ダヴィドはノヴゴロド、ドルツク、ロゴジュスクの公たちとの同盟に成功し、ヴィテプスク公に娘婿のヴァシリコを置くことで、ヴィテプスクを支配下に取り戻している。
妻子
[編集]妻はスモレンスク公、キエフ大公ロマンの娘。子には以下の人物がいる。
出典
[編集]- ^ a b c Энцыклапедыя гісторыі Беларусі: У 6 т. Т. 6. Кн. 2.: Усвея—Яшын; Дадатак / Рэдкал.: Г. П. Пашкоў і інш. — Мінск: БелЭн, 2003. — Т. 6. Кн.2. — 616 с.
- ^ Данилевич В. Е. Очерк истории Полоцкой земли до конца XIV столетия.