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フセスラフ・ヴァシリコヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フセスラフ・ヴァシリコヴィチ
Усяслаў Васількавіч
ヴィテプスク公
ポロツク公
在位 ヴィテプスク公1132年 - 1162年、1175年以降 - 1178年、1180年以降 - 1186年頃
ポロツク公:1162年 - 1167年、1167年 - 1175年以前、1178年 - 1180年以降

死去 1186年頃
子女 ダヴィド
娘(ウラジーミル大公ヤロポルク妃)
?ウラジーミル
家名 リューリク家
父親 ポロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラヴィチ
母親 スモレンスク公キエフ大公ロマンの娘
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フセスラフ・ヴァシリコヴィチベラルーシ語: Усяслаў Васількавіч、? - 1186年頃)は、ヴィテプスク公家出身のポロツク公である。ヴァシリコ・スヴャトスラヴィチの子[1]ヴィテプスク公1132年 - 1162年[1]、1175年以降 - 1178年、1180年以降 - 1186年頃。ポロツク公:1162年[1] - 1167年、1167年 - 1175年以前、1178年 - 1180年以降。

経歴

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フセスラフの在位期間は、ポロツク公国内部の分領公国が争っていた時期にあたる。1162年、この闘争の時代のポロツクの政権を、ドルツク公ログヴォロドミンスク公ロスチスラフが掌握した。そこでフセスラフはスモレンスク公(後にキエフ大公ロマンの娘を娶り、スモレンスク軍と連合して遠征を行い、1164年ヴィテプスク公国ダヴィド(スモレンスク公家の出身)に引き渡した。

1167年、ミンスク公ヴォロダリによってポロツクから追放されるが、ヴォロダリがヴィテプスクへの遠征には失敗したことで、再びポロツク公に復帰した。

1179年ノヴゴロド公ムスチスラフがポロツクへの遠征を計画したが、彼の兄のロマン(上記の、フセスラフの妻の父。)が警告を与え、子のムスチスラフを長としたスモレンスク軍を、フセスラフの援軍に派遣した。

しかし、ヴィテプスク公ダヴィドが追放され、その地位をフセスラフの弟のブリャチスラフが奪ったことで、ポロツクとスモレンスクとの関係は悪化した。なお、おそらく1186年に、ダヴィドはノヴゴロド、ドルツクロゴジュスクの公たちとの同盟に成功し、ヴィテプスク公に娘婿のヴァシリコを置くことで、ヴィテプスクを支配下に取り戻している。

妻子

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妻はスモレンスク公、キエフ大公ロマンの娘。子には以下の人物がいる。

出典

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  1. ^ a b c Энцыклапедыя гісторыі Беларусі: У 6 т. Т. 6. Кн. 2.: Усвея—Яшын; Дадатак / Рэдкал.: Г. П. Пашкоў і інш. — Мінск: БелЭн, 2003. — Т. 6. Кн.2. — 616 с.
  2. ^ Данилевич В. Е. Очерк истории Полоцкой земли до конца XIV столетия.

外部リンク

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