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フィリベルタ・ディ・サヴォイア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィリベルタ・ディ・サヴォイア
Filiberta di Savoia

出生 1498年以前
サヴォイア公国
死去 1524年4月4日
サヴォイア公国、ヴィリュー=ル=グラン城
配偶者 ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ
家名 サヴォイア家
父親 サヴォイア公フィリッポ2世
母親 クロディーヌ・ド・ブロス
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フィリベルタ・ディ・サヴォイアイタリア語:Filiberta di Savoia, 1498年以前 - 1524年4月4日)は、ジェクス女侯、ブリディエ女子爵、フォッサーノシャナ、イエンヌ、ブルジェ(サヴォイア公国)、モドン、サン=ジュリアンジュネーヴ)、ポンサン、セルドン、ヴィリュー=ル=グラン(ビュジェ)、ビリア、ブリュイエール(ポワトゥー)、トゥール、およびサントンジュフランス語版のフレの女領主。ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチの妃。

生涯

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フィリベルタはサヴォイア公フィリッポ2世とその2番目の妃クロディーヌ・ド・ブロスの間に1498年ごろかそれ以前に生まれた[1]。2人の兄フィリベルト2世およびカルロ3世は父の跡を継いでサヴォイア公となった。

1513年5月10日にフィリベルタはヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチと婚約した。侍従長フランソワ2世・マレシャル=メクシミューがジュリアーノの随行をつとめ[2]1515年2月10日トリノで結婚式が行われた。

結婚の翌年1516年に夫ジュリアーノが死去し、そのころよりフィリベルタは次第にプロテスタントに密かに関心を抱くようになった[3][4]

1524年、兄カルロ3世はフィリベルタにブルジェ城フランス語版を売却した[5]。ブルジェ城は放棄され、次第に荒廃していった[6]。フィリベルタは死の際に、ブルジェ城をサヴォイア公領に戻すこととした。

フィリベルタは1524年4月4日ビュジェのヴィリュー=ル=グラン城で死去した[3][7]

脚注

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  1. ^ Philiberte de Savoie” (英語). 2022年7月30日閲覧。
  2. ^ Page (1903), p. 18.
  3. ^ a b Boulitrop (1964), p. 17.
  4. ^ Wyrill (2002), p. 129.
  5. ^ Buttet d'Entremont (1906), pp. 213 - 232.
  6. ^ Chapier (2005), pp. 257 - 260.
  7. ^ Guigue (1873), p. 445.

参考文献

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  • Abbé François Page, curé de Mizérieux, Meximieux, une commune pendant la révolution, Chaduc, Belley, 1903.
  • Eugène Boulitrop, Histoire de la Réforme en Savoie, Aix-les-Bains, Auteur, 1964, 305 p.
  • Hubert Wyrill, Réforme et Contre-Réforme en Savoie, 1536-1679 : de Guillaume Farel à François de Sales, Éditions Olivetan, 2001.
  • Marc-André de Buttet d'Entremont, baron du Bourget, « Notes historiques sur les ruines du château du Bourget », Mémoires et documents publiés par la Société savoisienne d'histoire et d'archéologie, t. 44, octobre 1906.
  • Georges Chapier, Châteaux Savoyards : Faucigny, Chablais, Tarentaise, Maurienne, Savoie propre, Genevois, Éditions La Découvrance, coll. « L'amateur Averti », 2005, 410 p.
  • Marie-Claude Guigue, Topographie historique du département de l'Ain, Bourg, Gromier Ainé, 1873, 518 p.