ピエール・ジョセフ・セレスタン・フランソワ
ピエール・ジョセフ・セレスタン・ フランソワ Pierre Joseph Célestin François | |
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フランソワ作 「カルタゴの廃墟に座るガイウス・マリウス」(1791/1794) | |
生誕 |
1759年3月29日 現ベルギー,ナミュール |
死没 |
1851年3月13日 ベルギー,ブリュッセル |
運動・動向 | 新古典主義 |
ピエール・ジョセフ・セレスタン・フランソワ(Pierre Joseph Célestin François、または Joseph François 、1759年3月29日 - 1851年3月13日)は現在のベルギーのナミュールで生まれた画家である。新古典派のスタイルで、神話や歴史を題材にした作品や肖像画を描いた。ブリュッセルの美術学校で、フランソワ=ジョセフ・ナヴェスらを教えた。
略歴
[編集]当時、ネーデルラント連邦共和国であったナミュールでたばこ工場の工場長の息子に生まれた。シャルルロワで育ち、シャルルロワの画家、 Pierre Balthasar de Blocqに絵を学んだ。11歳でアントウェルペンの美術学校に入学し、 Andries Cornelis Lensや Willem Jacob Herreynsらのもとで8年間学んだ[1][2] 。1778年に修業の旅に出て、フランス、イタリアに旅した。イタリアではローマに1781年まで滞在した。ドイツを旅し、ウィーンに6ヶ月滞在した後、アントウェルペンに戻った。アントウェルペンで装飾画などを描いた。
1789年から再びローマに旅し、3年間滞在した。1791年にブリュッセルに戻り、ブリュッセルの美術学校で教え始めた。フランス革命の後、ブリュッセルは1792年から1815年までフランスの支配下になり、ブリュッセルの美術学校も1800年まで閉鎖された。1799年にブリュッセルのタペストリー製造を仕事とする名家の娘と結婚した。1803年にブリュッセルの芸術家協会(Société de peinture, sculpture et architecture de Bruxelles)の創立会員になり、副会長になった。1815年ブリュッセルがネーデルラント連合王国の領地となった時、改めてブリュッセルの美術アカデミー(1836年に王立美術アカデミーに改組される)の教授の称号を得て、1836年までこの職を続けた。フランソワが教えた学生にはフランソワ=ジョセフ・ナヴェスやアンリ・ドケーヌ、ジャン=バティスト・マドウがいた[1]。
作品
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テミストクレスとアドメトス (1836)
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プシュケとアモール
-
裁縫をしている女性
脚注
[編集]- ^ a b Henri Hymans, Pierre Joseph Célestin François in: Biographie Nationale Belge, Volume 7, pp. 259-260
- ^ Andries Lens at the Netherlands Institute for Art History
参考文献
[編集]- François, Pierre Joseph Celestin. In: Ulrich Thieme (Hrsg.): Allgemeines Lexikon der Bildenden Künstler von der Antike bis zur * Gegenwart. Begründet von Ulrich Thieme und Felix Becker. Band 12: Fiori–Fyt. E. A. Seemann, Leipzig 1916, S. 373–374
- Berko, Patrick; Berko, Viviane, Dictionary of Belgian painters born between 1750 & 1875; Brussel : Laconti , 1981
- François, Pierre Joseph Célestin in: Biografisch Portaal van Nederland