ピエール・ジメルマン
ピエール・ジメルマン Pierre Zimmerman | |
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アントワーヌ=ジャン・グロ画 1815年頃 | |
基本情報 | |
生誕 |
1785年3月17日 フランス王国 パリ |
死没 |
1853年10月29日(68歳没) フランス帝国 パリ |
ジャンル | クラシック |
職業 | ピアニスト、作曲家、教育者 |
ピエール=ジョゼフ=ギヨーム・ジメルマン(Pierre-Joseph-Guillaume Zimmermann, 1785年3月17日 - 1853年10月29日)は、フランスのピアニスト、作曲家、音楽教師。ピエール・ジメルマンやジョゼフ・ジメルマンなどの呼称で知られる。
生涯
[編集]ジメルマンはパリで、ピアノ製造者の息子として生まれた[1]。彼は1798年からパリ音楽院に通い、フランソワ=アドリアン・ボイエルデューの下でピアノを学んだ。ジメルマンは在学中の1800年にピアノの1等賞[注 1]、1802年には和声学でも1等賞を獲得している。彼はその後、ルイジ・ケルビーニの下でさらに研鑽を積む。ジメルマンは1811年に音楽院でピアノの助手、1816年には常勤の教授に任用され、これを1848年まで務めた。一方で、1821年に対位法とフーガの教授としての声がかかった際には辞退している。彼の門下生にはシャルル・グノー[注 2]、ジョルジュ・ビゼー、セザール・フランク、シャルル=ヴァランタン・アルカン、アンブロワーズ・トマ、ルイ・ラコンブ、アレクサンドル・ゴリア、ルイ・ルフェビュール=ヴェリーらがいる。グノーはしばしば助手としてジメルマンを補佐した。
ジメルマンは2曲のオペラ『L'enlèvement』(オペラ=コミック、1830年)と『Nausicaa』(上演されず)を作曲した。また、2曲のピアノ協奏曲、1曲のピアノソナタ、多数のピアノ曲を書いている。彼の最大の遺産は『ピアニストの百科事典 Encyclopédie du pianiste』と目される。これはピアノ奏法が完全に網羅され、和声と対位法の論文も付されたものとなっている[2]。
ジメルマンはパリに没し、16区のオートゥイユ墓地に埋葬された。
脚注
[編集]注釈
- ^ この時の2等賞はフリードリヒ・カルクブレンナーであった[2]。
- ^ グノーはジメルマンの娘の1人と結婚している[2]。
出典
参考文献
[編集]- Don Randel, The Harvard Biographical Dictionary of Music. Harvard, 1996, p. 1010-1011.