パレモナス朝
パレモナス朝(リトアニア語: Palemono dinastija)は、伝説上の人物であるパレモナスを祖とするリトアニア大公国の王朝である。
歴史
[編集]初期リトアニア国家時代は、基本的な部分は伝説で彩られている非常に僅かな資料しか残さなかったことから、初期リトアニアの公に関しては非常に乏しいことで有名である。幾つかの歴史上の文章には10世紀から11世紀にかけて生きた様々なリトアニアの公の名が見出せる。幾人かの歴史家はリトアニア人の起源及び幾つもの氏族の起源について語り継がれたパレモナスの伝説を書き留めた。この種の伝説は、パレモナス朝とまとめることのできる、かつてのパレモナスの子孫である伝説上の公について言及している。だが、伝説上の公に関する情報は年代的な矛盾を有しており、今日の歴史学では彼等の実在については疑問視されている。
リトアニア人の起源についての伝説の誕生
[編集]既にヤン・ドゥゴシュ (1415年—1480年)が、リトアニア人がローマ王冠の紋章を有していることを書いているが、細部にわたっては深く掘り下げてはいない。移民の統率者の名はヴィルリイ公であるが、その名前に関しては、ドゥゴシュの見解ではヴィリニュスの都市の名称であったという。ドゥゴシュは移住の時期をガイウス・ユリウス・カエサルの時代とし、リトアニア人の祖先は内戦から逃れてきたと見做した。ドゥゴシュの見解は僅かな拒否感のみ許容されつつマチェイ・ミェホヴィタによって語り継がれた。だが、既にマルチン・ビェルスキがこの伝説の真実性に疑問を抱いていた。ビェルスキはプトレマイオスの著作を根拠に、リトアニア人の祖先はゲルマン人やギリシャ人の側で住んでいるヘルール族 やアラン人が既に住んでいた土地から移住したと推測した[1]。
だが、ローマからのリトアニア人の発生に関する更なる後の歴史上の伝説は発達を得ることとなった。スプラスル年代記にはリトアニア人の伝説は記載されていない。だが、1530年代に二番間に編纂されたリトアニアの年代記にはパレモナスに関する伝説が現れている[2]。Археологического общества、Красинского、Рачинского, Ольшевская、Румянцевская、 Евреиновскаяの伝説が存在する6つの年代記が現存する。これ等の年代記以外にも『ブィホヴィエツ年代記』や『リトアニア=ジェマイティア年代記』に伝説が存在している[3]。さらには積極的にベラルーシ=リトアニア年代記 を積極的に活用したマチェイ・ストリコフスキーのところにも伝説が存在する。
パレモナスの伝説
[編集]伝説では一族の創始者は、 ローマ皇帝ネロの親戚でその苛政を逃れて500の著名な家族世帯とともにネマン川の河口やドゥビサ川やユーラ川からのネマン川付近に辿り着いたパレモナスというローマ人である。 ここで彼等は低地のジェマイティヤというところに住み着いた。伝説は、ストリイコフスキイによって、移動した時期が401年と幾らかアレンジされた。それによるとリトアニア人の祖先はアッティラの攻撃から逃れたとのことである[3]。リトアニア人はローマ人から派生し且つリトアニア国家はローマ国家から派生したことを証明するために 15世紀 ないし16世紀に伝説が生み出されたと見做されている[4]。
伝説の作者はリトアニアやベラルーシの地理にかなり疎かった、それ故に多くの間違いや矛盾が見出される。それ以外にも多数の年代確定の問題が存在しており、またその他の出典資料とは一致しない。原典の大部分がナヴァフルダク周辺に関係していることから、伝説はちょうど、この都市で生まれた可能性が高い[5]。
パレモナスの伝説はロシアの歴史家の間でかなり幅広く検証されてきた。『ブィホヴィエツ年代記』が刊行されるまで多くの歴史家がストリイコフスキイによる伝説の創作に信頼をおいていたが、В. Н. タンツェフ は伝説の幾つかの要素は、一連のもっと初期の学者が有している点に注目した[6]。伝説の歴史については既に18世紀にН. М. カラムジンが『баснословны и явно основаны на догадках』でリトアニア人の起源を書くことで疑問を呈していた[7]。
『ブィホヴィエツ年代記』が発見されるとテオドラス・ナルブタスによって研究された。ナルブタスは物語の真実性に信頼を置く一方で英雄の子孫と見做すリトアニア人のローマ起源の見解については否定した。他方、より後のリトアニア史の著作の集大成を敢行したИ. ヤロシェヴィチはナルブタスの姿勢の大部分を受け入れる一方でリトアニア人がローマから移住した伝説を「寓話の真実性」と名付けた[8]。
ソヴィエトの歴史家は『ブィホヴィエツ年代記』が1966年にロシア語で出版された後に同書の研究を始めた。その中の一人であるБ. Н. フロリヤはリトアニア人誕生の伝説はガシュタウタイ家主導の創作であるとの見解を出した[9]。別の歴史家であるА. А. チェミェリツカガは、伝説はリトアニアのルーシに対する優位性を証明するために創作されたと見解を出した[10]。その一方でこれ等に同意しない Н. Н. ウラシクは最初の枠組みがナヴァフルダク公国、即ちルーシが抜け落ちているからと反論した。
パレモナス公
[編集]伝説に従うとパレモナスはリトアニア公国の王朝の創始者である。パレモナスにはバルクス、クナス、スペラの3人の息子がいた。ストリイコフスキイも同じくパレモナスの息子達を9人のリトアニアの公を意味するダスプロンガスと名付けている。伝説によると、バルクスはユルバルカスの都市をクナスはカウナスの都市をそれぞれ築いた。スペラは将来にリトアニアの領域となるジェマイティヤの国境へ移動した。3人の内、リトアニア=ケルナヴェ公の祖となるケルニウスとジェマイティヤ公の祖となるギムブタスの2人の息子を儲けたクナスだけが子孫を残した。ケルニウスはパヤウタという娘を儲けたが、彼女は後にリトアニア=ケルナヴェ公を相続するキラスと結婚した。ギムブタスの後は息子のモントヴィラスが継承した[11]。
モントヴィラスの息子を始まりにして年代記は消息を分けている。『Евреиновской年代記』によるとジェマイティヤにいたモントヴィラスはネムノに移動した。別の息子であるスキルマンタスは父によってジェマイティヤの国境に派遣され、ネリス川とネマン川を渡ってナヴァフルダク公国の中心地となるナヴァフルダクの都市を建設している。他方、幾つかの年代記ではモントヴィラスの息子について混乱が見られる。『クラシンスク年代記』ではモントヴィラスの息子はネムナス、スキルマンタス、ヴィーキンタス、エルドヴィラスとしている。『オリシェフスク年代記』ではエルドヴィラス、クリムンタス(スキルマンタス)としているが、後に両者がスキルマンタスとヴィーキンタになっている。『ブィホヴィエツ年代記』はエルドヴィラスとヴィーキンタスのみ記している。ストリイコフスキイはモントヴィラスにはエルドヴィラス、ネムナス、ヴィーキンタスの3人の息子がいたと記し、さらにはヴィーキンタスとネムナスはポロツクに遠征して、その時にネムナスは敗北したと記す。『リトアニア=ジェマイティヤ年代記』ではエルドヴィラスはラディヴィルスと呼ばれた。コヤロヴィチ・ヴィユスクは、ヴィーキンタスはジェマイティヤを統治し、エルドヴィラスはナヴァフルダク(ネムナスが統治していたことは記していない)を統治したと記す。それ以外にもヴィーキンタスとネムナスは子孫を残さなかったと記す[11]。
リトアニアの資料によれば、ギンヴィル公家 の子孫の支流の一つはポロツク公国を強化させたが、その一方で情報にはロシアの年代記の記述とは矛盾が見受けられる。古い支流はナヴァフルダクに定着している。
リトアニア公に関するより少ない信頼に足りうる13世紀に出現している。その内の幾分かは1219年のリトアニア公とハーリィチ公との条約について言及している。その中の一人として言及されるミンダウガス(1263年没)はリトアニア 大公となった。
パレモナス朝の血筋は13世紀末期ないし14世紀初頭に断絶したが、ゲディミナス朝はパレモナス朝から派生したという仮説が存在する。
系図
[編集]系図はリトアニアの年代記を基に作成したが、間違いや年代上の矛盾が見受けられる。多くの公が史料上では証明されていない
パレモナス ジェマイティヤ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スペラ | クナス カウナス公 | バルクス ユルバルカス公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ギムブタス カウナス=ユルバルカス公 | ケルニウス ケルナヴェ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
モントヴィラス ジェマイティヤ公 | ジヴィブンダス ケルナヴェ公 | パヤウタ 夫: キラス -リトアニア= ケルナヴェ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ネムナス ジェマイティヤ公 | ヴィーキンタス ジェマイティヤ公 | エルドヴィラス ナヴァフルダク公 | ダブスプルンガス家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミンガイラス (1192年頃没) ナヴァフルダク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スキルマンタス (1175年頃没) ナヴァフルダク公 | ギンヴィル (ユーリー) (1199年頃没) ポロツク公 (?) 妻: マリヤ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トライデニス (1194年頃没) ナヴァフルダク公 | リウバルタス カラチェフ公 (?) | ピシマンタス トゥーロフ公 (?) | ボリス (1206年頃没) ポロツク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルギマンタス (1226年頃没) ナヴァフルダク公 | ログヴォロド・ヴァシーリー (1223年頃没) ポロツク公 (?) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リムガウダス (1226年頃没) ナヴァフルダク公 | ステグ (1212年頃没) | ドヴィロ | グレーブ | パラスケヴァ (1239年没) 1273 年列聖 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
娘 夫: ジェマイティヤ公 エルドヴィラス (1242年頃没) ないしヴィーキンタス | 娘 夫: 某 | ダブスプルンガス (1238年までに没) | ミンダウガス (1200年頃 — 1263没) 初代リトアニア 大公 妻: Мマルタ | ゲルデニス (1267年没) ナリシア公 1263年以降はポロツク公 | ヴィータウタス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トレニオタ (1264年没) 2代リトアニア 大公 | ルグベニウス (1260年以降没) ナリシア公 | タウトヴィラス (1263年没) ポロツク公 | エルドヴィラス (1264年以降没) ポロツク公 | 娘 夫: ダヌィーロ・ロマーノヴィチ (1264年没) ハーリィチ公 | アンドレイ (1323年没) トヴェリ府主教 1289年—1315年 | 娘 夫: 1266年以降 ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ (1276年没) コストロマフ公 ウラジーミル大公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コンスタンティナス[12] ヴィテブスク公 | アイグスタ[12] (1299年没) プスコフ公 | ヴァイシュヴィルガス (1267年没) 3代リトアニア 大公 | ルクリス (1263年没) | レプリス (1263年没) | 娘 夫: 1255年以降 シュヴァルナス (1268年没) ハーリィチ公 4代リトアニア 大公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ Улащик Н. Н. Введение в изучение белорусско-литовского летописания. pp. 135–136.
- ^ Lietuvių enciklopedija. Palemonas. Zenonas Ivinskis. Boston, Massachusetts. Lietuvių enciklopedijos leidykla. 1953—1966, том 21 стр. 400—401.
- ^ a b Улащик Н. Н. Введение в изучение белорусско-литовского летописания. p. 130.
- ^ Rowell, S. C. (1994). Lithuania Ascending: A Pagan Empire Within East-Central Europe, 1295-1345. Cambridge Studies in Medieval Life and Thought: Fourth Series. Cambridge University Press. p. 41. ISBN 9780521450119
- ^ Улащик Н. Н. Введение в изучение белорусско-литовского летописания. pp. 158–159.
- ^ Татищев В. Н. (1962). История российская. Vol. I. М., Л.. p. 290.
- ^ Карамзин Н. М. (1842). История государства Российского. Vol. II, гл. II. СПб.. pp. 17, примечание 35.
- ^ Улащик Н. Н. Введение в изучение белорусско-литовского летописания. pp. 171–172.
- ^ Флоря Б. Н. (1967). "О «Летописце Быховца»" (Источники и историография славянского средневековья ed.). М.: 135–164.
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: Cite journalテンプレートでは|journal=
引数は必須です。 (説明) - ^ Чамарыцкi В. А. (1969). Беларускiя летапiсы як помнiкi лiтаратуры. Мiнск. pp. 144–148.
- ^ a b Улащик Н. Н. Введение в изучение белорусско-литовского летописания. pp. 139–140.
- ^ a b Возможно, что Константин и Айгуст — один князь.
参考文献
[編集]- Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. (ロシア語). Vol. 1 (5000 экз ed.). М.: ОЛМА-ПРЕСС. Автор-составитель В. В. Богуславский. 2001. ISBN 5-224-02249-5。
- Улащик Н. Н. (1985). Введение в изучение белорусско-литовского летописания (1950 экз ed.). М.: Наука. Ответственный редактор доктор исторических наук В. И. Буганов.
- Генеалогические таблицы по истории европейских государств (Издание третье исправленное и дополненное (166 таблиц) ed.). Екатеринбург — Ташкент. Авторы-составители: Коновалов Ю. В., Шафров Г. М. 2008.
- Нарбут А.Н. (1994). Генеалогия Белоруссии. Выпуск 1. М.