パテルナ
州 | バレンシア州 |
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県 | バレンシア県 |
面積 | 35.85 km² |
標高 | 70m |
人口 | 67,156 人 (2014年) |
人口密度 | 1,873.25 人/km² |
住民呼称 | Paternero /a |
言語地域 | バレンシア語 |
自治体首長 (2015年) |
フアン・アントニオ・サグレド(PSPV-PSOE) |
北緯39度30分10秒 西経0度26分26秒 / 北緯39.50278度 西経0.44056度座標: 北緯39度30分10秒 西経0度26分26秒 / 北緯39.50278度 西経0.44056度
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パテルナ(Paterna)は、スペイン・バレンシア州バレンシア県のムニシピ(基礎自治体)。州都バレンシアの北西約5km、トゥリア川左岸にある。
歴史
[編集]パテルナに人が定住していた最古の痕跡は、新石器時代と青銅器時代にさかのぼる。イベリア人も、防衛用の壁や住居の壁跡から定住が確認されている。ウァレンティア(バレンシア)、エデタ(リリア)、サグントゥム(サグント)で記された文献でローマ人の到来が示されている。パテルナとはラテン語のpaternusまたは、財産の社会的および法的地位に言及した『父に属する』に由来する。パテルナ市内にはマサマグレイへ伸びる水道橋の跡がある。
イスラム支配時代、パテルナには陶器製造の他、農業が盛んに行われていた。アラブ人たちの灌漑技術が導入され、農地ではコメやオレンジを栽培していた。1237年4月、パテルナ住民は平和にアラゴン王ジャウマ1世を入城させた。
17世紀のモリスコ追放はパテルナ経済を減速させ、人口の急激な減少を招いた。アンシャン・レジーム時代、パテルナに積もり積もっていた政治的・社会的状況の悪化はさらに進んだ。1769年布告の王令では、マラリアの発生を防ぐためコメ栽培が禁止された。
19世紀は農業が復活し、1866年には水道が敷設され、1881年には新しい市庁舎ができ、1888年には狭軌鉄道が敷かれた。人口統計の上ではパテルナへの住民移動がみられた。バレンシアの中流階級のコテージや民家建設、防衛軍の兵舎建設があげられる。
人口
[編集]パテルナの人口推移 1900-2014 |
出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[1]、1996年 - [2] |
政治
[編集]首長一覧
[編集]任期 | 首長名 | 政党 |
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1979–1983 | ベルナルディーノ・ヒメネス・サントス | PSPV-PSOE |
1983–1987 | ベルナルディーノ・ヒメネス・サントス | PSPV-PSOE |
1987–1991 | ベルナルディーノ・ヒメネス・サントス | PSPV-PSOE |
1991–1995 | ホセ・エンリケ・バルゲス・ロペス | PSPV-PSOE |
1995–1999 | ホセ・ロメーロ (95-97) フランシスコ・ボルエイ・パラシオス (97-99) |
PP PSPV-PSOE |
1999–2003 | フランシスコ・ボルエイ・パラシオス | PSPV-PSOE |
2003–2007 | フランシスコ・ボルエイ・パラシオス | PSPV-PSOE |
2007–2011 | ロレンソ・アウグスト・ポンス | PP |
2011–2015 | ロレンソ・アウグスト・ポンス (11-14) エレナ・マルティネス (14-15) |
PP PP |
2015–2019 | フアン・アントニオ・サグレド | PSPV-PSOE |
2019–2023 | n/d | n/d |
2023– | n/d | n/d |
交通
[編集]- 鉄道 - メトロバレンシア
- 道路 - アウトビア7号線(es:Autovía del Mediterráneo)、アウトビア3号線(es:Autovía del Este)