バラトプル王国
バラトプル王国(バラトプルおうこく、ヒンディー語:भरतपुर, 英語:Bharatpur State)は、北インドのバラトプル地方に存在したヒンドゥー王朝(1722年 - 1947年)。首都はディーグ、バラトプル。1805年以降はバラトプル藩王国となる。
王国の首都はディーグであったが、1733年にスーラジ・マルがバラトプルを自身の拠点とすると[1]、バラトプルに遷都された。
歴史
[編集]バラトプル王国の前身は、北インド、マトゥラーのザミーンダールであるゴークラーが18世紀にジャート勢力を結集し、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブに抵抗を始めたことによる。1669年にゴークラーはマトゥラーを中心に反乱を起こしたが、1670年に鎮圧され、その体は八つ裂きにされた。
だが、ゴークラーの意志はラージャ・ラームに引き継がれ、1685年にマトゥラーを中心に反乱を起こして、ゲリラ戦法をると同時に略奪を重ねた[2]。アウラングゼーブがデカン戦争で不在のさなか、ジャートがデリーとデカン高原をつなぐ行動で略奪を始めたことで、1687年にアウラングゼーブは秩序回復のために軍を派遣した。だが、ジャートはこれを打ち破り、さらに1688年には重税を理由にアクバル廟を略奪し、遺骸を焼いた[3][4]。
同年7月4日、ラージャ・ラームが帝国軍に殺害されると、アウラングゼーブはアンベール王国のビシャン・シングをマトゥラーのファウジュダールに任命し、この地域のザミーンダーリーも与えた[5]。ジャートはチューラーマンに率いられかたくなに抵抗し、1691年に指導者らは降伏したが、ジャート農民は略奪をつづけた[5]。
1707年、アウラングゼーブが死ぬと、その後継者バハードゥル・シャー1世はチューラーマンと手を結び、シク教の指導者バンダー・シング・バハードゥルの討伐に参加させた[6]。アーグラ付近に勢力を持つ半独立の領主チューラーマンは帝国の貴族から見ても手を結んでおきたい存在であり、1712年に政権を握ったズルフィカール・ハーンが[7]、その後1713年に政権を握ったサイイド兄弟も彼と手を結んだ[8]。
1721年9月22日、チューラーマンが毒殺されると、バダン・シングが後を継ぎ、翌1722年にアンベール王ジャイ・シング2世は彼を独立した支配者として認めた[9]。これにより、ジャート勢力は名実ともに帝国から独立し、バラトプル地方に王国が誕生した。
1755年5月21日、バダン・シングが死ぬと、彼を支えていた甥のスーラジ・マルが王位を継承した。 彼は都を自身の拠点バラトプルに移動するとともに、領土の拡大に乗り出した。彼はロータク、アーグラ、ドールプル、メーラトなどを中心に現ハリヤーナー州南部にいたる広大な地域を支配下に収め、王国に最盛期をもたらした[10]。
だが、1763年12月25日、スーラジ・マルはローヒラー族のナジーブ・ウッダウラとデリー近郊で戦った際、伏兵の攻撃に遭って死亡した[1]。死後、ジャワーハル・シングが王位を継承したが、王国はしだいに小ザミーンダールの間に分裂していった[10]。
1803年、第二次マラーター戦争が勃発すると、バラトプル藩王国はマラーターのホールカル家に味方し、1805年1月にイギリスに首都バラトプルを包囲された(バラトプル包囲戦)。イギリスはバラトプルに攻撃を仕掛けたが、必死の抵抗もあって陥落させることはできず、イギリス軍は撤退した。
だが、同年4月27日にバラトプル王ランジート・シングはイギリスと軍事保護条約を結び、バラトプル王国はイギリスに従属する藩王国となった[1]。
1947年8月15日、インド・パキスタン分離独立時、バラトプル藩王国はインドへと帰属した。
脚注
[編集]- ^ a b c Bharat 3
- ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p. 362
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.362
- ^ 1
- ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p.362
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.4
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.6
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.8
- ^ Bharat 2
- ^ a b チャンドラ『近代インドの歴史』、p.25
参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年。
- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。