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バラトプル王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バラトプル王国
Bharatpur State
ムガル帝国 1722年 - 1947年 インド連邦 (ドミニオン)
バラトプル王国の国旗 バラトプル王国の国章
(国旗) (国章)
バラトプル王国の位置
領域(1909年
首都 ディーグバラトプル
元首等
1722年 - 1755年 バダン・シング
1755年 - 1763年スーラジ・マル
変遷
成立 1722年
インドへ併合1947年
通貨ルピー

バラトプル王国(バラトプルおうこく、ヒンディー語:भरतपुर, 英語:Bharatpur State)は、北インドバラトプル地方に存在したヒンドゥー王朝1722年 - 1947年)。首都はディーグバラトプル1805年以降はバラトプル藩王国となる。

王国の首都はディーグであったが、1733年スーラジ・マルがバラトプルを自身の拠点とすると[1]、バラトプルに遷都された。

歴史

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バラトプル王国の前身は、北インドマトゥラーザミーンダールであるゴークラーが18世紀にジャート勢力を結集し、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブに抵抗を始めたことによる。1669年にゴークラーはマトゥラーを中心に反乱を起こしたが、1670年に鎮圧され、その体は八つ裂きにされた。

だが、ゴークラーの意志はラージャ・ラームに引き継がれ、1685年にマトゥラーを中心に反乱を起こして、ゲリラ戦法をると同時に略奪を重ねた[2]。アウラングゼーブがデカン戦争で不在のさなか、ジャートがデリーデカン高原をつなぐ行動で略奪を始めたことで、1687年にアウラングゼーブは秩序回復のために軍を派遣した。だが、ジャートはこれを打ち破り、さらに1688年には重税を理由にアクバル廟を略奪し、遺骸を焼いた[3][4]

同年7月4日、ラージャ・ラームが帝国軍に殺害されると、アウラングゼーブはアンベール王国ビシャン・シングをマトゥラーのファウジュダールに任命し、この地域のザミーンダーリーも与えた[5]。ジャートはチューラーマンに率いられかたくなに抵抗し、1691年に指導者らは降伏したが、ジャート農民は略奪をつづけた[5]

1707年、アウラングゼーブが死ぬと、その後継者バハードゥル・シャー1世はチューラーマンと手を結び、シク教の指導者バンダー・シング・バハードゥルの討伐に参加させた[6]。アーグラ付近に勢力を持つ半独立の領主チューラーマンは帝国の貴族から見ても手を結んでおきたい存在であり、1712年に政権を握ったズルフィカール・ハーン[7]、その後1713年に政権を握ったサイイド兄弟も彼と手を結んだ[8]

1721年9月22日、チューラーマンが毒殺されると、バダン・シングが後を継ぎ、翌1722年にアンベール王ジャイ・シング2世は彼を独立した支配者として認めた[9]。これにより、ジャート勢力は名実ともに帝国から独立し、バラトプル地方に王国が誕生した。

スーラジ・マル

1755年5月21日、バダン・シングが死ぬと、彼を支えていた甥のスーラジ・マルが王位を継承した。 彼は都を自身の拠点バラトプルに移動するとともに、領土の拡大に乗り出した。彼はロータクアーグラドールプルメーラトなどを中心に現ハリヤーナー州南部にいたる広大な地域を支配下に収め、王国に最盛期をもたらした[10]

だが、1763年12月25日、スーラジ・マルはローヒラー族ナジーブ・ウッダウラとデリー近郊で戦った際、伏兵の攻撃に遭って死亡した[1]。死後、ジャワーハル・シングが王位を継承したが、王国はしだいに小ザミーンダールの間に分裂していった[10]

1803年第二次マラーター戦争が勃発すると、バラトプル藩王国はマラーターホールカル家に味方し、1805年1月にイギリスに首都バラトプルを包囲された(バラトプル包囲戦)。イギリスはバラトプルに攻撃を仕掛けたが、必死の抵抗もあって陥落させることはできず、イギリス軍は撤退した。

だが、同年4月27日にバラトプル王ランジート・シングはイギリスと軍事保護条約を結び、バラトプル王国はイギリスに従属する藩王国となった[1]

1947年8月15日インド・パキスタン分離独立時、バラトプル藩王国はインドへと帰属した。

脚注

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  1. ^ a b c Bharat 3
  2. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p. 362
  3. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.362
  4. ^ 1
  5. ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p.362
  6. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.4
  7. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.6
  8. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.8
  9. ^ Bharat 2
  10. ^ a b チャンドラ『近代インドの歴史』、p.25

参考文献

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関連項目

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