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スーラジ・マル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スーラジ・マル
Suraj Mal
バラトプル王
スーラジ・マル
在位 1755年 - 1763年
戴冠式 1755年5月22日
別号 マハーラージャ

全名 スージャンジー・シング
出生 1707年2月
死去 1763年12月25日
デリー近郊
子女 ジャワーハル・シング
ナハル・シング
ラタン・シング
ニハール・シング
ランジート・シング
父親 ループ・シング
母親 デーヴキー
宗教 ヒンドゥー教
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スーラジ・マルヒンディー語:सूरज मल, Suraj Mal, 1707年2月 - 1763年12月25日)は、北インドバラトプル王国の君主(在位:1755年 - 1763年)。スーラジュ・マルとも呼ばれる

彼は偉大なジャート族の指導者であり、その治世にバラトプル王国の領土は拡大し、その威信を北インド一帯に轟かせた。その支配は現ハリヤーナー州南部にいたる広大な地域を及んでいた。歴史家ビパン・チャンドラは「彼は敏腕な統治者でかつ戦士であり、賢明な政治家であった」と評している[1]

生涯

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前半生・王位継承

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バラトプル

1707年2月、スーラジ・マルはのちのバラトプル王国の君主バダン・シングの弟ループ・シングの息子として生まれた[2][3]。その家系はジャート族の指導者であり、17世紀末から18世紀初頭にかけて、ムガル帝国にたびたび反乱を起こしていた。

スーラジ・マルが生まれて間もなく、同年3月3日にムガル帝国の皇帝アウラングゼーブがその長い生涯を終え、帝国は徐々に崩壊の運命をたどった。

1733年、スーラジ・マルは26 歳の時、ラージャスターンバラトプルを占領し、ここを自身の拠点とした[2]。とはいえ、叔父のバダン・シングを支え続け、1755年にはその地位を継承した[2]

勢力拡大

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スーラジ・マル像

この時代、ムガル帝国は衰退期を迎え、マラーター同盟が勢力を広げていた。そうしたなか、スーラジ・マルはジャート勢力をまとめ上げ、最盛期には北はデリー州、西はアーグラ州、東はガンジス川、西はチャンバル川に至る版図を支配下に置いた[1]。その中にはマトゥラーアーグラアリーガルメーラトなど重要な都市も含まれていた。

スーラジ・マルと同時代の人間は彼に関して次のように語っている[1]

農民の服に身を包み、プラジ方言しか話せないが、彼はジャート部族のプラトンであった。租税や民事の扱いに際しての賢明さ、才知、能力において、アーサフ・ジャー・バハードゥルを除けば、ヒンドゥスターンの大物の中で彼に勝る人物はいなかった。

第三次パーニーパットの戦いと死

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スーラジ・マル像

1760年8月、スーラジ・マルはマラーター同盟軍ともにデリーへ入城し、アフガン勢力ドゥッラーニー朝を迎え撃とうとした。その際、軍総司令官のサダーシヴ・ラーオ・バーウにデリーを拠点にアフガン軍にゲリラ戦で対抗するように進言した。しかし、サダーシヴ・ラーオはこれを卑怯な戦い方だとして拒否したため、スーラジ・マルはデリーを去った。

1761年1月14日、マラーター同盟軍はアフガン軍にパーニーパットで敗れ、おびただしい数の死者を出した(第三次パーニーパットの戦い)。スーラジ・マルの予想通りであった。

その後、ドゥッラーニー朝は北インドから撤退したものの、スーラジ・マルはその代官として残されたローヒラー族ナジーブ・ウッダウラと対立した。ナジーブ・ウッダウラはパーニーパットの戦いのち、ムガル帝国の実権を握った人物であった。

1763年12月25日、スーラジ・マルはナジーブ・ウッダウラとデリー近郊で戦った際、伏兵の攻撃に遭って死亡した[2]。死後、息子のジャワーハル・シングが王位を継承したが、王国はしだいに分裂していった[1]

脚注

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  1. ^ a b c d チャンドラ『近代インドの歴史』、p.25
  2. ^ a b c d Bharat 3
  3. ^ Suraj Mal vs State (Delhi Administration) on 13 February, 1979

参考文献

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関連項目

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