バハラーム6世
バハラーム6世 バハラーム・チョービン 𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭 | |
---|---|
エーラーンと非エーラーンの諸王の王 | |
在位 | 590年〜591年 |
死去 |
591年 フェルガナ(西突厥の勢力範囲) |
次代(復位) | ホスロー2世 |
子女 |
|
家名 | ミフラーン家 |
王朝 | サーサーン朝 |
父親 | バハラーム・グシュナスプ |
宗教 | ゾロアスター教 |
バハラーム・チョービン (ペルシア語:بهرام چوبین、パフラヴィー語:𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭、生没年:不明〜591年)はサーサーン朝のシャーハンシャー。「光明神ミスラの僕(しもべ)」を意味するメフルバンダク(Mehrbandak)の渾名でも知られる[1]。 サーサーン朝の貴族出身であり、北部の軍司令官(スパーフベド)を務めた。サーサーン朝で始めての、シャーハンシャーを世襲してきたサーサーン家出身でない(ミフラーン家出身)シャーであり、王位を簒奪しバハラーム6世として国内を統治した(在位:590年〜591年)。
バハラームはバハラーム・グシュナスプの息子で、パルティア系貴族のミフラーン家出身。役職としては、レイの統治者から始まり、東ローマ・サーサーン戦争でのダラの要塞の攻略の功によって、北西部の軍司令官(スパーフベド)に昇進した。588年の大規模なエフタルと突厥による侵略の中で、彼はホラーサーンのスパーフベドに任じられ、その結果サーサーン朝に決定的な勝利をもたらした。
バハラームは家柄、性格、才能、実績らが相まって、帝国内で高い地位を確立した。サーサーン朝の王ホルミズド4世はこれに不信感を抱き、指揮権を剥奪した。バハラームはホルミズド4世に対して、「アルサケス朝の復活」を大義名分に掲げて反旗を翻した。反乱の中でバハラームは自身をゾロアスター教の救世主になぞらえた。バハラームの反乱軍が首都クテシフォンに向かう最中、反ホルミズド派閥を率いるアスパーフバド家のヴィスタム・ヴィンドゥーヤ(Vinduyih)兄弟によってホルミズドは暗殺され、ホルミズドの息子シェーローエがホスロー2世として即位したが、バハラームがクテシフォンに到着すると、ホスローは東ローマ帝国に亡命した。東ローマ帝国のバックアップを得たホスローは、バハラームに対して軍事行動を起こし、バハラームは兵数では勝っていたものの敗北を喫し西突厥へ亡命した。まもなくバハラームは復位したホスロー2世が放った刺客により暗殺される。
バハラーム・チョービンの生涯とその勇姿はイスラーム教徒のペルシア征服後も、イランの民族主義者(ナショナリスト)に語り継がれ、「バハラーム・チョービン・ナーマ(Bahrām Chōbīn Nāma、バハラーム・チョービンの書)」を始めとするペルシア文学作品にも描かれている。
名前
[編集]テオフォリックネーム[注釈 1]である「Bahram(バハラーム)」は古代ペルシア語の「Vṛθragna」に由来し、パフラヴィー語(中期ペルシア語)「Warahrān(ワラフラーン、ワルフラーン)」または「Wahrām」の新ペルシア語綴である。アヴェスター語の勝利の神ウルスラグナに相当し、パルティア語ではWarθagnと綴る。またチョービン(Chobin)は「投げ槍のような、木製の棒」を意味し、バハラームの背が高く細身な体型に由来して付けられている[2]。著名なペルシア文学家フィルドゥシーは、シャー・ナーメの作中でバハラームを「背が高い、黒い巻き毛(カーリーヘア)で色黒な戦士」と表現している[2]。その他の言語でもバハラーム・チョービンの名は記されており、ギリシア語ではBaram Č‛ubin[i][3]、アルメニア語ではVahram Ch’obin[4]となる。ラテン語ではVararanes[5]、またギリシア語ではテオフィラクトス・シモカテスがBaram(Βαράμ)、ヨハネス・ゾナラスはBaramos(Βάραμος)と記述している[6]。
背景
[編集]バハラームは、七大貴族の一つに数えられるパルティア系の有力貴族ミフラーン家出身である。ミフラーン家は今日のイランの首都テヘランの南に位置するレイ(レイイ)を根拠地としていた。ミフラーン家のグシュナスプ・ミフラーンはヤズデギルド2世の没後、後継争いに際して、ペーローズ1世を擁立した。ヤズデギルド2世の統治下で権勢を張り、ホルミズド3世を擁立したスーレーン家勢力を破ると、ペーローズ1世を即位させサーサーン朝の実権を握った[7]。しかし、ペーローズ1世は対エフタル戦役で戦死し、おそらくミフラーン家の重鎮たちが大勢戦死し、その影響もあってか実権はカーレーン家に移った[8]。
ホスロー1世の治世下において、サーサーン朝を東西南北4つの軍管区に分類し、それぞれに軍司令官(スパーフベド)を置き、パルティア系貴族を登用した[9]。祖父のゴーローン・ミフラーンはアルメニアのマルズバーン(辺境伯に近い、辺境の州の将軍を指す役職)や[10]、北部の軍司令官を務めた[11]。父のバハラーム・グシュナスプは北部の軍司令官を務め、東ローマ帝国と戦い、イエメンへの戦役にも従軍して、イエメンの首都サヌアを奪還しサーサーン朝の衛星国としている[11]。このイエメン戦役において、ミフラーン家は北部軍管区の兵を私有化し、軍事力を強めた[11]。また、ホスロー1世の治世後半には、ミフラーン家出身の貴族が宰相となり、ミフラーン家が再び政治・軍事両面においてサーサーン朝の実権を握った。
バハラームの兄弟姉妹にはゴルディヤ、ゴルデュヤ(Gorduya)、マルダンスィーナー(Mardansina)の3人の名前が記録されている。
台頭
[編集]バハラームの経歴はレイのマルズバーン(辺境地域の総督)から始まった。当時のサーサーン朝はホスロー1世(在位:531年〜579年)の統治下で、ユスティニアヌス1世率いる東ローマ帝国と一進一退の攻防を繰り返しながら、ともに最盛期を迎えていた。572年、東ローマ帝国のメソポタミアにおける重要拠点、ダラの要塞を包囲した。この包囲戦でバハラームは騎兵隊を率い、4ヶ月に渡る包囲戦の結果サーサーン朝が要塞を攻略した[12]。この戦功により、アゼルバイジャンやメディア地方の軍事力を掌握する、北部の軍司令官(スパーフベド)[注釈 2]に昇進した[1]。スパーフベドに就任してからも、北メソポタミアを巡る東ローマ帝国との長きにわたる戦争に参戦している。588年、突厥の可汗、葉護可汗(ヤブグ・カガン)[注釈 3]は家臣となったエフタル[注釈 4]を引き連れて、オクサス川(アムダリヤ川、アム川)の南部の領土に侵攻した。バルフのサーサーン朝軍を敗走させると、さらにタールカーン、バードギース、ヘラート等の諸都市に侵攻した[17]。
サーサーン朝陣営の軍議で、バフラームは討伐軍の指揮官に選出され、ホラーサーンの総督に相当する役職を与えられた。バハラーム軍は1万2千の精鋭から成る騎兵隊であった。また戦象やダイラム系の歩兵も動員されている[18][1]。588年4月、バハラーム軍は突厥とエフタルの連合軍を奇襲した(ヒュルカニアン・ロック(Hyrcanian rock)の戦い)[19]。バハラームは突厥の可汗・葉護可汗を射殺している[注釈 5]。さらに589年には、バルフを奪還し[21]、突厥の財宝や黄金の玉座を奪った[22]。さらにオクサス川(アムダリヤ川)を渡河して、突厥軍を追撃した[1][23]。ブハラ近郊のBaykand(バイカンド)まで追撃し、葉護可汗の息子Birmudhaを捕虜として首都クテシフォンに送還した[22]。Birmudhaを、シャーのホルミズド4世(在位:579年〜590年)は歓迎し、のちにバハラームにトランスオクサシナへ送り返すよう命令し、バハラームの所へ戻ってきた[22]。この戦争でサーサーン朝はタシュケントやサマルカンドを始めとするソグディアナ諸都市を支配し、ホルミズドは硬貨を鋳造している[注釈 6][22][24]。
第1次ペルソ・テュルク戦争で大勝利を収めたあと、遊牧民(ハザールとされている)の侵入に対応するために、コーカサスに派遣され、勝利している。さらに対東ローマ帝国戦争の指揮官に抜擢され、ジョージアで東ローマ帝国軍を打ち破った。しかし、アラス川の辺で、小規模であるものの、東ローマ帝国軍に敗北した。かねてよりバハラームの活躍をよく思っていなかったホルミズド4世は、この敗戦を口実にバハラームを要職から解き、さらに彼を辱めた[25][1]。
この少し前まで、宮廷ではバハラーム4世が粛清を行っており、ミフラーン家出身の大宰相イーザド・グシュナスプ・ミフラーンを始めとして、ホスロー1世が重用していた家臣たちを処刑してた[24]。パルティア系貴族にも粛清は及び、カーレーン家出身の、東の軍司令官Zarmihr Karen(チフルブルゼーン・カーレーン)や、イスパフベダーン出身で義理の父にあたるシャープール・イスパフベダーンも処刑されている[26]。バハラームは中央アジア遠征の最中であったことから、この時には粛清を免れている。
他の資料によれば、バハラームは突厥に対する勝利等から、貴族たちの妬みを買うようになったと指摘している。ホルミズド4世の宰相、アゼン・グシュナスプ(アードゥル・グシュナスプ)もその一人で、バハラームは戦利品の大半を横領し、ホルミズドの下にはわずかしか送っていないと非難した[27]。またさらに別の資料によれば、Birmudha(ヤブグ・カガンの息子)や他の貴族がその噂を流したとされる[27]。いずれにせよ、ホルミズドはバハラームの名声の高まりを危惧し、戦利品を横領していたとして、要職から解いた。この際に、ホルミズドは「女のように恩知らずで卑しい奴隷」であることを示唆する鎖と紡錘、さらに女の衣服を送りつけている[1]。この仕打ちに対してバハラームは遂にホルミズドに対する反乱を起こすことを決意した[1]。サーサーン朝研究を創始したテオドール・ネルデケは、1879年に東ローマ帝国に敗れたために反乱を起こしたという説を提唱したが、その10年後にバハラームの反乱は、彼が東部(中央アジア方面)に遠征していた時に起こったことを確証付ける資料が発見され、その説は否定されている[1]。
反乱
[編集]ホルミズド4世の仕打ちに憤慨したバハラームは反乱を起こした。バハラームは、その身分に加えて優れた軍事知識を兼ね備えていたため、彼の配下の兵士たちのみならず、多くの人々が反乱に加わった。ホラーサーンに新しい領主を据えると、クテシフォンへ進軍した[1]。これは、サーサーン朝史上、アルサケス朝の後継を名乗り、サーサーン朝の正統性を脅かす反乱を起こした初めての事例であった[28]。大宰相アードゥル・グシュナスプは反乱鎮圧軍として派遣されたが、その道中ハマダーンで配下の将軍Zadesprasに暗殺され、反乱軍は霧消した[29]。またSarames the Elderも鎮圧軍として派遣されたが、バハラームによって撃退され戦象に踏み殺された[30]。また、ホルミズドはアスパーフバド家のヴィンドゥーヤ・ヴィスタム兄弟との関係を修復しようとしていたが、彼らもホルミズドを嫌っていた[1]。ホルミズドはヴィンドゥーヤを投獄し、ヴィスタムはなんとか逃れることができた。しばらくして、二人はクーデターを決行し、ホルミズドの目を潰した上で、廃位した。ホルミズドは、彼らの父シャープールを処刑していたので、父の敵討ちでもある。彼らは投獄されていたホルミズドの長男かつ自分たちの甥にあたるシェーローエを解放し、590年6月27日、ホスロー2世として即位させた。ホルミズドはすぐに殺されたが、ホルミズドへの復讐という旗印を変えずにバハラームはクテシフォンへの進軍を続けた[1][22]。
ホスローはアメとムチの態度を取り、バハラームに対して自身の正統な王権を主張する書状を送った。
諸王の王かつ支配者の支配者、民衆の主、平和の王、人々の救世主、神々の中では善良で永遠に生きる人間、人間の中では最も尊敬される神、非常に高名な者、勝者、太陽とともに昇り夜に視力を貸し与える者、祖先から名声を与えられた者、憎悪する王、ホスローより、
サーサーン朝と交戦し、エーラーン帝国に我らの王権を保持した恩人__エーラーンの将軍にして我らの友バハラームへ
私たちは合法的に王位を継承し、エーラーンの慣習を覆していない。私たちは強く王冠を手放さないと決意していて、もし可能であれば、他の世界でさえも支配することを望んでいた。もし貴方が自身の幸福を望むならば、何をすべきか考えるべきです。[31]
バハラームはこの警告を無視して、クテシフォン近郊のナフラワーン運河でホスロー陣営と戦った。ホスロー陣営は数で大きく劣勢であったものの、数度の衝突を経てなんとかバハラーム軍を食い止めた。しかし、ホスローの軍は次第に士気を失い、バハラーム軍に敗北した。その後、ホスローは2人の叔父や妻、30人の貴族の従者とともに東ローマ帝国領に逃亡し[注釈 7]バハラームは帝都クテシフォンを占領した[33]。590年夏、バハラームは「もともと羊飼いだったサーサーン朝の初代皇帝アルダシール1世はアルサケス朝の王位を簒奪し即位した」として、「アルサケス朝の正式な後継者であり、アルサケス朝の支配を復活する」との名目の下、シャーハンシャーに即位した[1][34]。
治世
[編集]バハラームは自身の正当性をゾロアスター教の終末論に依った。ゾロアスター教は宇宙を12000年周期と捉え、そのうち3000年ずつ4つの期間に分類している。宇宙の始まりから9000年後にゾロアスターが誕生し、その後にも1000年おきに、3人の救世主が誕生するとされていた。実際にサーサーン朝期には、ゾロアスターはセレウコス朝期(紀元前312年成立)の人物とみなされていて[注釈 8]、バハラームの生きた時代はちょうどゾロアスターの死後1000年にあたっていた。ローマやエフタル、フンによる戦乱により世界は混沌に見舞われてこそいるが、ゾロアスター教徒は今こそ救世主が現れると信じていた。バハラームは多くのゾロアスター教徒に、約束された1人目の救世主「カイ・バハラーム・ヴァルジャーヴァンド」(Kay Bahram Varjavand)とみなされた[1]。バハラームはアルサケス朝を再建することで、新たな千年紀を始めることを試みた。また、自身の支配を強調するために、硬貨の鋳造を始めた。バハラームの硬貨は、表面にバハラームが髭を生やし、冠を着けた高貴な人物として描かれている。また、裏面には二人の従者とともに伝統的な火の祭壇が描かれている[1]。しかし、サーサーン朝貴族や聖職者の大多数は経験不足で優位性に欠けるホスロー2世の陣営についた[1]。
東ローマ皇帝マウリキウス(在位:582年〜602年)の関心を得るため、ホスローはシリアへ出向き、サーサーン朝が占領していた旧東ローマ帝国領マルティロポリスに対して、東ローマ帝国に対する抵抗運動をやめるよう書状を送ったが、効果はなかった[35]。ホスローは皇帝マウリキウスに、自身の復位への協力を呼びかけた。「暗黒の勢力がサーサーン朝を占領したら、次は東ローマ帝国の番でしょう」と救援の要請を示唆する文面が残されている[36]。マウリキウスとローマ帝国元老院は、「東ローマ帝国へアミダ、カルラエ、ダラ、マルティロポリスなどコーカサス地方の割譲、サーサーン朝のイベリアやアルメニアへの介入の禁止、ホスロー2世はマウリキウスの娘マリアを娶る」といった厳しい条件で合意した[33][36]。
591年、ホスロー2世はコンスタンティアに移動し、サーサーン朝への逆侵攻に向け準備し始めた。また、ヴィスタムとヴィンドゥーヤもJohn Mystaconの監視下で、アゼルバイジャンで募兵した。John Mystaconは東ローマ帝国指揮官で、ホスロー2世の逆侵攻では、アルメニア一帯の軍を率いることとなる。そしてついに、591年1月、ホスローは東ローマ帝国南部軍司令官コメンティオルスとともにサーサーン朝領のメソポタミアに侵攻した。この援軍は4万もの大軍であった。侵攻中、ニシビスとマルティロポリスは即座にホスロー側に寝返り[33]、バハラーム陣営の将軍Zatsparhamは敗死し[37]、 BryzaciusはMosil(現在のモースル)で捕虜となり、鼻と耳を削ぎ落とされた上で、ホスローのもとに送られ処刑された[38][39]。この間、コメンティオルスが無礼であると感じていたホスロー2世は、軍司令官をナルセスに交代させるようにマウリキウスを説得した[33][37]。その後、ホスローとナルセスはサーサーン朝領の奥深くまで侵攻し、2月にはダラ、次いでマルディンを占領すると、ホスローは復位を宣言した[37]。さらにホスローのイラン人支持者Mahbodhをクテシフォンに送り、帝都の奪還に成功した[40]。
同時に、ヴィスタム指揮下の8000のイラン兵とMushegh2世指揮下のアルメニア兵12000もアゼルバイジャンに侵攻してきた[1]。バハラームはアルメニア軍を離反させるために、Mushegh2世に対して書状を送った。「時を誤った忠誠心を示すアルメニア人諸君よ、サーサーン家は貴方がたの土地と主権を破壊したではないか。そうでなければ、なぜアルメニア人の先祖たちはサーサーン家に反乱を起こし、サーサーン朝の支配から抜け出し、今日まで祖国アルメニアのために戦ってきたのか。」[41]という内容だった。バハラームの書状では、もしアルメニアがホスローを裏切りバハラーム側に与したら、バハラームの帝国とアルメニアは対等なパートナーとして扱うことを保証している[42]。しかし、Mushegh2世はこの申し出を断った[42]。
591年夏、ホスロー2世はアルメニア軍、ヴィスタム・ヴィンドゥーヤ軍と合流し、6万の軍勢に膨れ上がった[43]。バハラームはこの2軍の合流を防ごうと少ない軍を引き連れてクテシフォンを発ったが、合流に間に合わなかった[44]。[43]。両軍はペルシア北西部のブララトン川沿いの平原で戦った。バハラーム軍は、数で圧倒的に劣勢だったものの奮戦し、3日間に渡って戦いは続いた。3日目の夕暮れには、ヴィンドゥーヤがバハラーム軍の兵士に対して、身の安全を保証したために多くが脱走した。この戦いはホスロー2世が勝利し、サーサーン朝における優位が確定した[43]。
亡命とその死
[編集]ブララトンの戦いで敗北したバハラームは、4000人の兵士とともに東方へ逃亡した。ニーシャープールへ進軍し、クーミスでカーレーン家の貴族率いる軍隊とバハラーム迎撃軍を破った。逃避行には苦難が絶えなかったが、遂に突厥の勢力圏フェルガナに到着した[45][1]。バハラームは突厥の可汗に丁重に饗された。このときの可汗はおそらく、数年前にバハラームが捕虜にしたBirmudhaである[22]。バハラームは突厥でも軍の指揮官の職を得て、さらに功績を挙げている [46][1]。とりわけ可汗の兄弟であるByghu(おそらく大臣職に相当するヤブグの誤訳である)の陰謀を防ぎ、可汗を救ったことは、彼の突厥における人気を高めた[22]。しかしホスロー2世は、突厥でも人気を持つバハラームが生きていることが自身の地位を脅かすと考え、刺客を放ちバハラームは暗殺された[1]。この暗殺の成功の裏では、ホスローが突厥の女王や皇族に賄賂を贈っていたと伝わっている [46]。遺されたバハラーム支持者の大多数は北部イランに戻り、ヴィスタムの反乱に参加している[47]。
遺族の運命
[編集]バハラームの死後、妹でかつ妻であったゴルディヤ(Gordiya)は、ホラーサーンに渡り、ヴィスタムに嫁いだ。ヴィスタムもまたのちに国王ホスロー2世に対して、反乱を起こしている。バハラームには3人の息子がいた。長男シャープールはサーサーン朝への反乱を続け、ヴィスタムの反乱にも協力している。ヴィスタムの反乱が鎮圧されると、シャープールは処刑された[1]。次男ミフラーンは、イスラーム教徒のペルシア征服が進む中、633年アイン・アル・タムルの戦いにサーサーン朝の将軍として参戦している[48]。その息子スィヤーヴァフシュ(Siyavakhsh)はレイを支配していた。バハラームの反乱の鎮圧に貢献したヴィンドゥーヤ(Vinduyih)に対する報復として、女王アーザルミードゥフトと協力し、ミフラーンは彼の息子ファッルフ・ホルミズドを処刑した[49]。末子のノーシュラドは、サーマーン朝の祖先とされている。ミフラーン家の子孫という称号は、トランスオクサシナやホラーサーン地方などのイラン東北部を支配に正当性を与えた[1]。
死後の影響
[編集]バハラームの生涯とその勇姿はパフラヴィー語(中期ペルシア語)文学作品「バハラーム・チョービン・ナーマ 」("バハラーム・チョービンの書")に描かれている。バハラーム・チョービン・ナーマはJabalah bin Sālimによって翻訳され、後世ではホスロー2世賛美の記述も付け加えられて、ディーナワリーやフィルドゥシー、Abu Ali Bal'amiの著作に影響を与えている[1]。ペルシア文学に登場する様々な英雄のように、バハラーム6世(バハラーム・チョービン)についても様々な伝説が語り継がれている。11世紀のフィルドウゥシーによる著作「シャー・ナーメ」の第8巻は[50]、「ホスロー1世の息子、ホルミズド4世」と「ホスロー・パルヴィーズ(ホスロー2世)」に関する章であるが、ホルミズド4世やホスロー2世の記述と同程度、バハラーム6世に関しても記述している。イブン・ナディームは彼の著作(図書目録)「フィフリスト」で、バハラームは弓術の指南書を書いたことを記録している[1]。またバハラームの死後、Sunpadhは「アブー・ムスリムは死んでおらず、マフディー(救世主)とともに真鍮の要塞の中で生きている」と主張している。この真鍮の要塞は、バハラームがトルキスタン地方での住処としていた場所を指している。イランの民族主義者たちの間で、バハラーム人気が高かったことの現れである[1]。
サーサーン朝の滅亡後、現在のイラン地方はアラブ人の支配下に入ったが、9世紀にはサーマーン朝が独立した。このサーマーン朝はバハラームの子孫が建国した[51]。
家系図
[編集]ゴーローン・ミフラーン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
バフラーム・グシュナスプ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルダンスィーナー(Mardansina) | バフラーム・チョービン | ゴルデュヤ(Gorduya) | ゴルディヤ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ノーシュラド | ミフラーン | シャープール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スィヤーヴァフシュ(Siyavakhsh) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Toghmath | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Jotman | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サーマーン・フダー →サーマーン朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 古代ギリシアや、メソポタミア等で見られる、神の加護を受けるために付けられた、神の名前に由来関連する名前である。
- ^ ホスロー1世以降(またはカワード1世)、スパーフベドは帝国を東西南北の4つの地区に分割し、それぞれの地区ごとに置かれる役職となっている。ホラーサーン(東部)、南部、西部、そしてアゼルバイジャンのスパーフベド(アゼルバイジャン地方の人々が「北」という呼称を嫌ったために、アゼルバイジャンのスパーフベドと呼ばれる)の4役職は以降のサーサーン朝において軍事的に大きな権力を握った[13][14]。
- ^ ペルシア語文献にはŠāwa、Sāva、Sāba等と表記される[15][16]。
- ^ ホスロー1世は突厥と挟撃して、567年頃にはエフタルを滅ぼしていたが、その後もエフタルと呼ばれる人々は存在していた。
- ^ 葉護可汗の死については諸説ある。いくつかのトルコの史料では達頭可汗征伐の際に敗死したと記述されている[20]。またJosef MarkwartやDenis Sinorは589年9月以前のペルソ・突厥戦争中(この日付はレフ・グミリョフが特定した)に既に射殺されていたと主張しており[15]、対してPeter Goldenは、588年に死去したことを示す資料の存在から、その説を否定している. [16]。
- ^ これらサマルカンド諸都市はのちに突厥に奪還され、サーサーン朝の支配は数年間で終わった。その際、Kadagistanも占領された[22]。
- ^ この際に、ヴィンドゥーヤは捨て身で奮闘し、バハラームの捕虜になったともされている[32]。
- ^ ゾロアスターの生没年は今に至るまで分かっていない。その生没年や活動地域にも諸説ある。もともとゾロアスター教の伝承では「アレクサンドロス大王の時代より258年前、ゾロアスターは30歳で啓示を受けた」とされていることから、紀元前6世紀と推定できる。しかし、この説では明らかに遅すぎて、年代に矛盾が生じるため、紀元前20世紀から紀元前10世紀の間と推定されてはいる。詳細は英語版(ゾロアスター#年代の章)を参照。
引用
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Shahbazi 1988, pp. 514–522.
- ^ a b Kia 2016, p. 240.
- ^ Rapp 2014, pp. 195, 343.
- ^ Sebeos 1999, p. 168.
- ^ Jones 1971, p. 945.
- ^ Martindale, Jones & Morris 1992, p. 166.
- ^ 青木 2020 p,208,209
- ^ 青木 2020 p,218、220
- ^ 青木 2020 p,236~238
- ^ Pourshariati 2008, p. 103.
- ^ a b c 青木 2020 p,248~250
- ^ Nicholson, Canepa & Daryaee 2018.
- ^ Gyselen (2004)
- ^ Pourshariati (2008), pp. 95ff.
- ^ a b Shahbazi, A. Sh. "BAHRĀM (2), (Section vii. Bahrām VI Čōbīn)". Encyclopædia Iranica. 2011年6月25日閲覧。
- ^ a b Golden, Peter (2016). “"The Great King of the Türks"” (ドイツ語). Turkic Languages 20 (1): 26–59. doi:10.13173/TL/2016/1/26 .
- ^ Rezakhani 2017, p. 177.
- ^ Farrokh, Kaveh. Shadows in the Desert. pp. 245–246
- ^ Jaques 2007, p. 463.
- ^ Taşağıl, Ahmet (2012) (トルコ語). Gök-Türkler I-II-III (1st ed.). Turkish Historical Society. pp. 48–49
- ^ 青木 2020 p,255
- ^ a b c d e f g h Rezakhani 2017, p. 178.
- ^ Litvinsky & Dani 1996, pp. 368–369.
- ^ a b 青木 2020 p,256
- ^ Martindale, Jones & Morris 1992, p. 167.
- ^ 青木 2020 p,257,258
- ^ a b Tafazzoli 1988, p. 260.
- ^ Pourshariati 2008, p. 96.
- ^ 青木 2020 p,259
- ^ Warren, p. 26.
- ^ Kia 2016, p. 241.
- ^ 青木 2020 p,260
- ^ a b c d Howard-Johnston 2010.
- ^ 青木 2020 p,261
- ^ Greatrex & Lieu 2002, p. 172.
- ^ a b 青木 2020 p,266
- ^ a b c Greatrex & Lieu 2002, p. 173.
- ^ Martindale, Jones & Morris 1992, p. 251.
- ^ Rawlinson 2004, p. 509.
- ^ Greatrex & Lieu 2002, p. 174.
- ^ Pourshariati 2008, pp. 128–129.
- ^ a b Pourshariati 2008, p. 129.
- ^ a b c Shahbazi (1988), pp. 214–222.
- ^ 青木 2020 p,267
- ^ Gumilev L.N. Bahram Chubin, pp. 229 - 230
- ^ a b Kia 2016, p. 242.
- ^ Pourshariati 2008, p. 133-134.
- ^ Pourshariati 2008, p. 201.
- ^ Pourshariati 2008, p. 206.
- ^ online at http://persian.packhum.org/persian/
- ^ Narshakhī, Abū Bakr Muḥammad ibn Jaʻfar; Frye, Richard N. (2007). The History of Bukhara. Markus Wiener Publishers. ISBN 978-1-55876-419-4, pages 77-78.
参考文献
[編集]- 青木健『ペルシア帝国』講談社〈講談社現代新書〉、2020年8月。ISBN 978-4-06-520661-4。
- Crawford, Peter (2013). The War of the Three Gods: Romans, Persians and the Rise of Islam. Pen and Sword. ISBN 9781848846128
- Foss, Clive (1975). The Persians in Asia Minor and the End of Antiquity. 90. Oxford University Press. 721–47. doi:10.1093/ehr/XC.CCCLVII.721
- Frye, Richard Nelson (1984). The History of Ancient Iran. C.H.Beck. pp. 1–411. ISBN 9783406093975 . "The history of ancient iran."
- Greatrex, Geoffrey; Lieu, Samuel N. C. (2002). The Roman Eastern Frontier and the Persian Wars (Part II, 363–630 AD). New York, New York and London, United Kingdom: Routledge (Taylor & Francis). ISBN 0-415-14687-9
- Gyselen, Rika (1996–2021). "SPĀHBED". In Yarshater, Ehsan (ed.). Encyclopædia Iranica, Online Edition. New York: Encyclopædia Iranica Foundation. 2012年11月30日閲覧。
- Howard-Johnston, James (2010). "Ḵosrow II". Encyclopaedia Iranica, Online Edition. 2016年2月27日閲覧。
- Jaques, Tony (2007). Dictionary of Battles and Sieges: F-O. Greenwood Publishing Group. pp. 1–1354. ISBN 9780313335389
- Kia, Mehrdad (2016). The Persian Empire: A Historical Encyclopedia [2 volumes: A Historical Encyclopedia]. ABC-CLIO. ISBN 978-1610693912
- Litvinsky, B. A.; Dani, Ahmad Hasan (1996). History of Civilizations of Central Asia: The crossroads of civilizations, A.D. 250 to 750. UNESCO. pp. 1–569. ISBN 9789231032110
- Martindale, J. R.; Jones, A. H. M.; Morris, J. (1971). The Prosopography of the Later Roman Empire: Volume 1, AD 260-395. Cambridge University Press. ISBN 9780521072335
- Martindale, John Robert; Jones, Arnold Hugh Martin; Morris, J., eds (1992). The Prosopography of the Later Roman Empire, Volume III: A.D. 527–641. Cambridge, United Kingdom: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-20160-5
- Nicholson, Oliver; Canepa, Matthew; Daryaee, Touraj. "Khosrow I Anoshirvan". The Oxford Dictionary of Late Antiquity.
- Oman, Charles (1893). Europe, 476-918, Volume 1. Macmillan
- Potts, Daniel T. (2014). Nomadism in Iran: From Antiquity to the Modern Era. London and New York: Oxford University Press. pp. 1–558. ISBN 9780199330799
- Pourshariati, Parvaneh (2008). Decline and Fall of the Sasanian Empire: The Sasanian-Parthian Confederacy and the Arab Conquest of Iran. London and New York: I.B. Tauris. ISBN 978-1-84511-645-3
- Rapp, Stephen H. (2014). The Sasanian World through Georgian Eyes: Caucasia and the Iranian Commonwealth in Late Antique Georgian Literature. Ashgate Publishing. ISBN 978-1472425522
- Rawlinson, George (2004). The Seven Great Monarchies of the Ancient Eastern World. Gorgias Press LLC. ISBN 9781593331719[リンク切れ]
- Rezakhani, Khodadad (2017). ReOrienting the Sasanians: East Iran in Late Antiquity. Edinburgh University Press. pp. 1–256. ISBN 9781474400305
- Sebeos (1999). The Armenian History Attributed to Sebeos, Part I: Translation and Notes. Translated, with notes, by R.W. Thomson. Historical commentary by James Howard-Johnston. Assistance from Tim Greenwood. Liverpool University Press. ISBN 0-85323-564-3
- Shahbazi, A. Sh. (1988). "Bahrām VI Čōbīn". Encyclopaedia Iranica, Vol. III, Fasc. 5. London et al. pp. 514–522.
- Shahbazi, A. Shapur (1989). "Besṭām o Bendōy". Encyclopaedia Iranica, Vol. IV, Fasc. 2. pp. 180–182. 2013年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月23日閲覧。
- Shahbazi, A. Shapur (2004). "Hormozd IV". Encyclopaedia Iranica, Vol. XII, Fasc. 5. pp. 466–467.
- Shahbazi, A. Shapur (2005). "Sasanian dynasty". Encyclopaedia Iranica, Online Edition. 2014年8月24日閲覧。
- Tafazzoli, A. (1988). "Āzīn Jošnas". Encyclopaedia Iranica, Vol. III, Fasc. 3. p. 260.
- Warren, Soward. Theophylact Simocatta and the Persians. Sasanika. オリジナルの2016-10-22時点におけるアーカイブ。 2019年2月11日閲覧。
- Daryaee, T. (2015). “Wahrām Čōbīn the Rebel General and the Militarization of the Sasanian Empire”. In Krasnowolska, A.. Studies on the Iranian World: Before Islam: Medieval and Modern, Vol. 1. Kraków: Jagiellonian University Press. pp. 193–202
外部リンク
[編集]バハラーム6世
| ||
先代 ホスロー2世 |
エーラーンと非エーラーンの諸王の王 590年〜591年 |
次代 ホスロー2世 (復位) |