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バイシン (キプチャク人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

バイシン(? - 1315年)は、大元ウルスに仕えたキプチャク人

元史』などの漢文史料では拝降(bàijiàng)と表記される。

概要

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バイシンの出自について、『元史』の列伝には「北庭人」であったと記されるが、キプチャク人の王であったクルスマン(「欽察国王」忽魯速蛮)と同じ出身地とする史料があることから、屠寄は『蒙兀児史記』においてバイシンの先祖がキプチャク人であったと考証している[1]。バイシンの父のクドゥ(忽都)は武勇に優れた人物で、ケシクテイ(宿衛)を経て南宿州鎮将となり、蘄県を守った。後にクビライの指揮下に入り、70歳の高齢となっても戦場では先鋒を務め数十もの傷を負いながら数多の戦功を挙げた。クドゥは大名路清豊県に移住した後亡くなったが、この時バイシンは生後数カ月であり、母の徐氏に育てられて大名城中で学問を学び大成した[2]

至元11年(1274年)、丞相アジュによる襄陽攻めが始まると、その麾下に入って南宋軍との戦いに従事するようになった。南宋の平定後は功績により江浙省理問官とされている[3]

至元27年(1290年)、江西行尚書省都鎮撫の地位に移り、猺・獠を丞相マングタイとともに討伐した。至元29年(1292年)、慶元路治中の地位に移ったが、この年は飢饉が起こっていた。しかし慶元路は飢饉の状況を行省に正確に報告していなかったため、バイシンが行省に強く要請し粟4万石を発給させることで民を救ったという[4]

至元31年(1294年)、クビライが死去しオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位したが、この頃両浙塩運司同知の范某が密かに賊と結託し民を害するという問題が生じていた。更に、范某が蘭渓州の葉一・王十四らの田を奪おうとしていたことが行省にまで伝わったことで審理のためバイシンが派遣され、バイシンは范某の非法を認めて刑罰に処し、捕らえられた葉一・王十四を釈放したという。大徳元年(1297年)、浙東廉訪副使の地位に移り、その後も工部侍郎、工部尚書に昇任している[5]

至大2年(1309年)、皇太子アユルバルワダ(後の仁宗ブヤント・カアン)が皇太后ダギとともに五台山に避暑した時には、バイシンが道路整備を行い一つの落とし物もないような状態に整えたという。この頃資国院使の地位を得たが、母の徐氏が亡くなり、喪に服すため杭州に移った。この頃は酒が禁じられていた時期であったが、クビライは特別に酒10甕を墓所に届けさせたという。徐氏はバイシンを厳しく教育して育てた人物であり、母を失ったバイシンは再び仕官することなく延祐2年(1315年)に死去した[6]

脚注

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  1. ^ 『蒙兀児史記』巻147
  2. ^ 『元史』巻131列伝18拝降伝,「拝降、北庭人。父忽都、武勇過人、由宿衛為南宿州鎮将、分守蘄県。後従世祖南征、年幾七十、毎率先士卒、冒矢石、身被数十瘡、戦功居多。徙居大名路清豊県、卒。贈広平路総管、封漁陽郡侯。忽都卒時、拝降生甫数月、母徐氏鞠育教誨甚至、毎曰『吾惟一子、已童丱矣、不可使不知学』。顧県僻左、無良師友、遂遣従師大名城中。郡守毎旦望入学、見拝降容止講解、大異群児、甚愛奨之。比弱冠、美髭髯、儀表甚偉」
  3. ^ 『元史』巻131列伝18拝降伝,「丞相阿朮南攻襄陽・江陵諸郡、以偏裨隷麾下。軍行至安陽灘、与宋軍遇。宋騎直前突陣、陣為却。拝降躍馬出陣前、引弓連斃数人、宋騎稍却。復率衆戦良久、宋師大潰。至元五年、囲襄樊、戦有功。十一年、従阿朮渡江、水陸遇敵、嘗先登陥陣、勇冠一軍。宋平、以功授江浙省理問官。時事方草創、省臣有所建白、及事有不可便宜自決須奏聞者、以拝降善敷奏、数令馳駅往咨於朝。及引見、世祖遥識之、喜曰『黒髯使臣復来耶』。其見器使如此」
  4. ^ 『元史』巻131列伝18拝降伝,「二十七年、遷江西行尚書省都鎮撫。適猺・獠擾辺、拝降従丞相忙兀台討定之。二十九年、遷慶元路治中。歳大饑、状累上行省、不報。拝降曰『民饑如是而不賑之、豈為民父母意耶』。即躬詣行省力請、得発粟四万石、民頼全活」
  5. ^ 『元史』巻131列伝18拝降伝,「元貞間、両浙塩運司同知范某陰賊為奸、州県吏以賂、咸聴駆役、由是数侵暴細民。民有珍貨腴田、必奪為己有、不与、則朋結無頼、妄訟以羅織之、無不蕩破家業者。凶焔爍人、人咸側目。里人欲殺之、不果、顧被誣訴逮繋者亡慮数十人、倶死獄中。蘭渓州民葉一・王十四有美田宅、范欲奪之、不可、因誣以事、繋獄十年不決。事聞於省、省下理問所推鞫之、適拝降至官、冤遂得直。置范於刑、而七人者先瘐死矣、惟葉一・王十四得釈、時論多焉。大徳元年、遷浙東廉訪副使、令行禁止、豪強懾伏。同寅有貪穢者、拝降抗章核之於台、遂免其官。後転工部侍郎、賜侍燕服一襲、升工部尚書、有能声」
  6. ^ 『元史』巻131列伝18拝降伝,「至大二年、仁宗奉皇太后避暑五台、拝降供給道路、無有闕遺、恩賚尤渥。比至都、改資国院使。母徐氏卒、遂奔喪於杭。時酒禁方厳、帝特命以酒十罌、官給伝致墓所、以備奠礼。初、徐氏盛年守節、教子甚厳、比拝降貴、事上於朝、特旌其門。及老、見拝降歴官有声誉、喜曰『有子如是、吾死可瞑目矣』。拝降居喪尽礼、未及起復、延祐二年、卒於家。贈資政大夫・江浙左丞、諡貞恵」

参考文献

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