コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ハノーファー君主一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハノーバー公から転送)
ハノーファー王家の紋章

ハノーファー君主一覧では、ハノーファーを中心とする領邦国家を統治した君主を列挙する。

歴史

[編集]

ヴェルフ家が支配するブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国は頻繁に一族間で領地の分割が行われた。このうち、カレンベルク侯領ゲッティンゲン侯領を相続したゲオルクハノーファーに拠点を移した。ゲオルクの息子であるエルンスト・アウグスト1692年選帝侯位を獲得し、それは居住地であるハノーファーに因んでハノーファー選帝侯と呼ばれるに至った。

次代のゲオルク・ルートヴィヒが1705年リューネブルク侯領を相続したことによりブラウンシュヴァイク=リューネブルクは再統一に近い形となった(ヴォルフェンビュッテル侯領は同族が治めていた)。さらにゲオルク・ルートヴィヒはイングランド王ジェームズ1世の曾孫であったことから、1714年にイギリス(グレートブリテン王国)の国王ジョージ1世として即位した。こうしてハノーヴァー朝が創始され、ハノーファーとイギリス同君連合体制が敷かれた。なお、選帝侯及び王家の名前として一般にハノーファーが使われているが、正式名称はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯であり、家名も正式にはブラウンシュヴァイク=リューネブルク家(Hause of Brunswick-Lüneburg)の名がもっぱら使用された。

ゲオルク3世(ジョージ3世)の代にはフランス帝国によるハノーファー占領と1806年神聖ローマ帝国崩壊で選帝侯の地位を失った。1814年ウィーン会議の結果、ハノーファー王国が成立し、ゲオルク3世はその初代国王となる。1837年ヴィクトリアがイギリス女王として即位したが、ハノーファーは女子の相続を認めないサリカ法を採用していたので、叔父のカンバーランド公エルンスト・アウグストがハノーファーの王位に就く事でイギリスとの同君連合は解消された。ただし、同君連合解消後もカンバーランド公及びイギリス王族の地位は認められた。エルンスト・アウグストの息子ゲオルク5世1866年に勃発した普墺戦争オーストリア帝国側に就き、その結果ハノーファー王国はプロイセン王国に占領・併合されて滅びた。

ハノーファー選帝侯 (1692年 - 1814年)

[編集]

(*生年 †没年)

肖像画 名前 統治期間と生没年 備考
エルンスト 1692年 - 1698年
*1629年 †1698年
ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公ゲオルクの息子。1692年に選帝侯位を得て、初代ハノーファー(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク)選帝侯となる。
ゲオルク1世 1698年 - 1727年
*1660年 †1727年
兼連合王国国王ジョージ1世。エルンスト・アウグストの息子。 1714年に連合王国の君主に推戴されてハノーヴァー朝を開き、ハノーファーは同君連合体制となる。
ゲオルク2世 1727年 - 1760年
*1683年 †1760年
兼連合王国国王ジョージ2世。ゲオルク1世の息子。1760年に死去した時には王太子フリードリヒ・ルートヴィヒは父に先立って死去していた。そのため王太子の息子であるゲオルク3世が王位を継ぐ事になった。
ゲオルク3世 1760年 - 1806年
*1738年 †1820年
兼連合王国国王ジョージ3世。ゲオルク2世の孫。フランス帝国によるハノーファー占領と1806年神聖ローマ帝国崩壊で選帝侯位を喪失。ウィーン会議の結果、1814年ハノーファー王国が創立され、その初代国王になる。晩年は息子達のスキャンダルに悩まされて精神に異常を来して統治能力を完全に失った。
1806年 - 1814年:この期間はハノーファーはフランス帝国衛星国であるヴェストファーレン王国の支配下に置かれた。

ハノーファー国王 (1814年 - 1866年)

[編集]

(*生年 †没年)

肖像画 名前 統治期間と生没年 備考
ゲオルク3世 1814年 - 1820年
*1738年 †1820年
同上
ゲオルク4世 1820年 - 1830年
*1762年 †1830年
兼連合王国国王ジョージ4世。 ゲオルク3世の息子。
ヴィルヘルム 1830年 - 1837年
*1765年 †1837年
兼連合王国国王ウィリアム4世。 ゲオルク4世の弟。
エルンスト・アウグスト 1837年 - 1851年
*1771年 †1851年
兼カンバーランド公。 ヴィルヘルムの弟。1837年に姪のヴィクトリアがイギリス女王の地位に就くが、ハノーファーではサリカ法で女子相続を認めていなかったためにハノーファー王位に就く。ここにイギリスとの同君連合体制は終了したが、イギリス王族としての身分は以後も保持することを認められた。
ゲオルク5世 1851年 - 1866年
*1819年 †1878年
兼カンバーランド公。エルンスト・アウグストの息子。1866年普墺戦争の際にはオーストリア帝国側に立ったことで、ハノーファーはプロイセン王国に占領・併合されて王位を失った。
1866年 - 1918年:王国滅亡後のハノーファー家は同族が統治していたブラウンシュヴァイク公国を統治することが認められ、それは1918年ドイツ帝国が崩壊するまで続いた。

系図

[編集]
ハノーファー選帝侯
エルンスト・アウグスト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゲオルク1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゲオルク2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フリードリヒ・ルートヴィヒ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハノーファー国王
ゲオルク3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゲオルク4世ヴィルヘルムエドゥアルトエルンスト・アウグスト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヴィクトリアゲオルク5世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


関連項目

[編集]