ヘニー・マイヤー
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フランク・ステープルトン(中)、ヤン・セーレンセン(右)と共に取材を受けるマイヤー(1987年7月)。 | ||||||
名前 | ||||||
本名 | ヘニー・インヘマル・マイヤー | |||||
ラテン文字 | Hennie Ingemar MEIJER | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
オランダ スリナム | |||||
生年月日 | 1962年2月17日(62歳) | |||||
出身地 | スリナム・パラマリボ | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 84kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1983-1984 | テルスター | 32 | (20) | |||
1984-1985 | FCフォレンダム | 33 | (9) | |||
1985-1987 | ローダJC | 65 | (27) | |||
1987-1988 | アヤックス・アムステルダム | 26 | (11) | |||
1988-1993 | FCフローニンゲン | 146 | (49) | |||
1993 | ヴェルディ川崎 | 22 | (3) | |||
1993-1994 | SCカンブール・レーワルデン | 25 | (8) | |||
1994-1995 | SCヘーレンフェーン | 13 | (2) | |||
1996 | デ・フラーフスハップ | 20 | (5) | |||
1996-1998 | BVフェーンダム | 51 | (17) | |||
通算 | 422 | (150) | ||||
代表歴 | ||||||
1987 | オランダ | 1 | (0) | |||
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ヘニー・マイヤー(Hennie Meijer, 1962年2月17日 - )は、スリナム出身でオランダ国籍の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード[1]。
来歴
[編集]オランダ領ギアナ(現スリナム)の首都パラマリボ出身。1983年にオランダ2部テルスターでプロデビュー。アヤックス時代の1987年にオランダ代表入りし、1試合出場(9月9日、親善試合ベルギー戦で67分にアーロン・ヴィンターに代わって途中出場[2])。1988年からFCフローニンゲンで5シーズンプレーし、1990-91シーズンにはミルコ・ジュロヴスキーと共にゴールを量産しクラブを過去最高の3位に導き、オランダ年間最優秀選手賞に輝いた。その間の1989年には、スリナム系オランダ人サッカー選手の選抜チームがスリナムで試合を行うため搭乗した飛行機が墜落する事故(スリナム航空764便墜落事故)が起き、マイヤーは前の便でスリナム入りし難を逃れたが、多くの仲間を失う悲劇があった。
1993年のJリーグ開幕時にヴェルディ川崎に加入。来日前にアキレス腱を痛め、合流したのは開幕1週間前だった。同年5月15日の開幕戦・横浜マリノス戦で前半19分にJリーグ第1号ゴールを決めた[3]。左サイド、ペナルティエリアの外側からマリノスのDF小泉淳嗣を振り切っての豪快なミドルシュートだった。2018年のインタビューで「あれは本能的な得点だった。何とか『左サイドでフリーになって、中に切り込んで打つ得意の形に持ち込みたい』と当時の僕は考えたんだろう。勝手に体が動いた」と語っている[4]。
ヴェルディがJリーグ初勝利を挙げた5月22日のサンフレッチェ広島戦で2ゴール目を決めるもその後は目立った活躍を見せず、11試合出場2得点の記録を残し7月に契約解除され退団。当時のヴェルディは松木安太郎監督の下でオランダ人のフランツ・ファン・バルコムがヘッドコーチを務め、マイヤーらオランダ人3人、ブラジル人3人が在籍し日本人の選手・スタッフと意思疎通を欠き[注 1]、ミーティングで監督の松木から言われたのも「You Score Goal(点取って)」だけだったという。年俸は30万ユーロで鹿島のジーコの推定年俸とほぼ同じ好待遇だったが、「日本人が知るオランダ人はフリット、ファンバステン、ライカールトだけ。元オランダ代表、MVPの僕でも最後まで『お前、誰だ』扱いだった」と語っている。来日中は富士山や東京ディズニーランドを満喫していたという[4]。
オランダに帰国後、SCヘーレンフェーン、2部のBVフェーンダムなどでプレーし1998年に引退。オランダの1部・2部で通算148得点を挙げた。
2003-04シーズンには古巣テルスターでアシスタントコーチを務めた[5]。
前夫人と離婚し、2男3女を育てるため専業主夫となり選手年金に頼る生活を10年間続けたが、再婚。その後、サッカースクールを設立し、老人ホームの入居者のケアの仕事も行っている[6]。
所属クラブ
[編集]- テルスター 1983-1984
- FCフォレンダム 1984-1985
- ローダJC 1985-1987
- アヤックス・アムステルダム 1987-1988
- FCフローニンゲン 1988-1993
- ヴェルディ川崎 1993.5-1993.7
- SCカンブール・レーワルデン 1993.7-1994
- SCヘーレンフェーン 1994-1995
- デ・フラーフスハップ 1996
- BVフェーンダム 1996-1998
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1993 | V川崎 | - | J | 11 | 2 | 0 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J | 11 | 2 | 0 | 0 | |||||
総通算 | 11 | 2 | 0 | 0 |
代表歴
[編集]- オランダ代表(1試合0得点)
- 1987年9月9日ベルギーとの親善試合戦で、後半アーロン・ヴィンターとの交代で出場し、約23分間プレーした。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ チームメイトだった北澤豪は「ヴェルディと言えばブラジルだったのに、突然、オランダの選手たちが加入して、サッカーが変わっちゃったんだから。あれは衝撃でしたね。誰も受け入れてなかったし、みんなが戸惑っていた。」「バルコムが同じオランダ人のマイヤーとか、ハンセンとかを連れてきたんだと思うけど、そこへの哲学は理解できなかったな。」「練習でも試合でも、みんながストレスを抱えながらやっていたから、結果は出ないよね。まあ、まとまってなかったですよ。」と語っている。「27年前のカズさんのプレーを堪能して」 北澤豪が語る“ヴェルディ黄金時代”
出典
[編集]- ^ “元V川崎マイヤー氏、カズお目当て!J再開を願う”. 日刊スポーツ (2020年5月15日). 2020年7月22日閲覧。
- ^ Wereld van Oranje
- ^ “岡ちゃん連覇 悲運俊輔は号泣/4度目V横浜の軌跡”. j-league. 17 April 2020閲覧。
- ^ a b ラモスやカズと口利けず…J第1号マイヤー氏が裏話
- ^ Cv Hennie Meijer
- ^ Jリーグ第1号!波瀾万丈の元V川崎マイヤー氏直撃
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ヘニー・マイヤー - National-Football-Teams.com
- ヘニー・マイヤー - FootballDatabase.eu
- ヘニー・マイヤー - WorldFootball.net
- ヘニー・マイヤー - Transfermarkt.comによる選手データ
- ヘニー・マイヤー - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ヘニー・マイヤー - UEFA
- ヘニー・マイヤー - J.League Data Siteによる選手データ