コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ハドソン湾の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハドソン湾の戦い
ウィリアム王戦争

沈没するペリカン
1697年9月5日
場所ヨークファクトリー近くのハドソン湾、現在のマニトバ州
北緯57度0分17.5秒 西経92度18分38.4秒 / 北緯57.004861度 西経92.310667度 / 57.004861; -92.310667座標: 北緯57度0分17.5秒 西経92度18分38.4秒 / 北緯57.004861度 西経92.310667度 / 57.004861; -92.310667
結果 フランスの勝利
衝突した勢力
フランス王国の旗フランス王国 イングランドの旗イングランド王国
指揮官
ピエール・ル・モイヌ・ディベルヴィユ ジョン・フレッチャー
戦力
フリゲート艦1(44門) フリゲート艦3(総門数124)
被害者数
艦の損傷及び沈没 艦2隻が沈没
1隻が拿捕
ヨークファクトリーの位置(マニトバ州内)
ヨークファクトリー
ヨークファクトリー
マニトバ州

ハドソン湾の戦い(またはヨークファクトリーの戦い)は、大同盟戦争北アメリカではウィリアム王戦争)の時期に起こった海戦である。1697年9月5日[1]ピエール・ル・モイヌ・ディベルヴィユ指揮下のフランス軍が、ジョン・フレッチャー率いるイングランド部隊を破り、その結果、ハドソン湾交易所であるヨークファクトリーがフランスのものとなった[2]

戦闘に至るまで

[編集]
ピエール・ル・モイヌ・ディベルヴィユ

ディベルヴィユの旗艦である44門艦ペリカンは、ハドソン湾でイングランドと対戦するために、より大きな艦隊をハドソン湾に送り込んだ[3]。戦場に向かう途中、ペリカンは、分厚い霧のため他の艦と離れ離れになったが、ディベルヴィユは単独で行くことを決意し、一軍艦ペリカンの、さほど有名ではないが、勝利への華々しい挑戦が始まることになった[3]

ヨークファクトリーの近くまで来たペリカンは、兵士の一団を上陸させ、砦をどうやって攻略するかを検分させた。ディベルヴィユはペリカンにとどまった。彼方にマストを見たディベルヴィユは、それをフランスの艦隊だと思い、ペリカンをそちらの向に向けたが、それが敵艦であることに気づいた。ペリカンをハンプシャー英語版と、武装した2隻の貨物船、デリングとハドソンズベイのイングランド艦隊が取り囲んだ。イングランド軍は、多くの兵士を揃え、また多くの大砲を装備しており、一方ディベルヴィユの兵の精鋭部隊は上陸していた。その他は壊血病のため船中にいた。ペリカンは危機にさらされた[2]

戦闘

[編集]

ディベルヴィユは、部隊を呼び戻すのは難しいと思い、捨て身の交戦を決めた。戦闘は追撃戦で始まったが、2時間半の後には、ペリカンとハンプシャーによる、凄まじい片舷射撃の応酬となった。[4]。ほぼ4時間にわたっての激戦は、イングランド有利であるかに見えた。ペリカンのフランス兵たちはかなり負傷しており、血が船を伝って海へと滴り落ちていた[2]。フレッチャーはディベルヴィユに降伏を迫ったが、ディベルヴィユは拒否した[5]

フレッチャーが、ディベルヴィユの勇敢さをたたえ、ワインで乾杯した時、ペリカンの砲弾がハンプシャーの火薬庫を爆破し[6]、ハンプシャーは煙を出しながら爆発して、すべての乗員を乗せたまま沈没した[2]。また、乾杯は、戦闘前に、ディベルヴィユとフレッチャーの間で行われたとも言われる[7]

ヨークファクトリー攻略

[編集]
復元されたペリカン

他の2隻の貨物船うちの1隻は、捨て鉢になって砲撃を行ったが、望みを捨て、マストに降伏のしるしである白旗をすばやく掲げた。もう1隻は大急ぎで退却した。フランスは勝利をものにした。[2]

ペリカンも交戦中に破損していた。喫水線の上部に穴が開いており、破棄せざるを得なくなった[3]。ペリカンは沈められ、乗員はヨークファクトリーのわずかに南側の野営地に集結し、ペリカンの代わりとなるプロフォンをはじめ、フランスの艦隊が到着した。それから5日間[8]、ディベルヴィユは900人の軍勢を率いて[7]ハドソン湾総督ヘンリー・バレイ配下のイングランド兵と小競り合いを繰り返し、イングランドは9月13日に降伏した[8]。フランスの手に落ちたヨークファクトリーはブルボン砦と改称され、ハドソン湾でイギリスに残された交易所はオルバニー交易所のみとなった[7]。これにより、ディベルヴィユの輝かしい戦歴にまた新たな1ページが加えられた[3]ハドソン湾会社が、ヨークファクトリーを取り戻すのは、その16年後のことである[8]

ウィリアム王戦争後のレイスウェイク条約では、フランスがジェイムズ湾、イングランドがヨークファクトリーを確保することが決められていて、1697年9月20日に調印も終わっていたが、ヨークファクトリーがフランスのものとなったことで、逆に、フランスがヨークファクトリー、イングランドがジェイムズ湾を自国のものとするという条件で、改めて締結がなされた。このため、イングランドは、ヨークファクトリーの、2万ポンドの価値の毛皮をフランスに奪われた[7]

脚注

[編集]
  1. ^ Elle Andra-Warner (15 August 2009). Hudson's Bay Company Adventures: The Rollicking Saga of Canada's Fur Traders. Heritage House Publishing Co. p. 74. ISBN 978-1-894974-68-4. https://books.google.co.jp/books?id=3iXIqHDnIs4C&pg=PA74&redir_esc=y&hl=ja 
  2. ^ a b c d e Exploration the fur trade and Hudson’s Bay Company
  3. ^ a b c d Anthony Dalton (1 May 2011). The Fur-Trade Fleet: Shipwrecks of the Hudson's Bay Company. Heritage House Publishing Co. p. 22. ISBN 978-1-926936-09-3. https://books.google.co.jp/books?id=LoaVmYnm7T0C&pg=PA22&redir_esc=y&hl=ja 
  4. ^ Francois-Xavier Garneau (1876). History of Canada from the time of its discovery till the union of 1840-41. Belford Brothers. p. 356. https://books.google.co.jp/books?id=y44-AAAAYAAJ&pg=PA356&redir_esc=y&hl=ja 
  5. ^ Mary Beacock Fryer (1993). More battlefields of Canada. Dundurn Press Ltd.. p. 25. ISBN 978-1-55002-189-9. https://books.google.co.jp/books?id=543kHhH_ZYQC&pg=PA25&redir_esc=y&hl=ja 
  6. ^ Peter Charles Newman (August 2000). Empire of the bay: the company of adventurers that seized a continent. Penguin Books. ISBN 978-0-14-029987-8 
  7. ^ a b c d 木村和男『世界歴史選書 毛皮交易が創る世界 ハドソン湾からユーラシアへ』 岩波書店、2004年、26頁。
  8. ^ a b c Dictionary of Canadian Biography Online