ハイリゲンシュタット (ウィーン)
Heiligenstadt/ハイリゲンシュタット | |
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紋章 | 位置 |
ハイリゲンシュタット(ドイツ語: Heiligenstadt)は1892年まで独立した基礎自治体として存在し、現在はウィーン・デープリング(ウィーン19区)を構成する10地区のうちの1地区である。
地理
[編集]ドナウ川の河川工事1875年以後のハイリンゲンシュタットはドナウ運河に接する平坦な地域と、北西側のウィーンの森レオポルドベルクへ伸びる丘陵地帯で形成されている。面積219.46ヘクタール。北側はヌスドルフ(Nußdorf)とヨーゼフドルフ(Josefsdorf)に接し、西側はグリンツィング(Grinzing)、南側はウンターデーブリング(Unterdöbling)に接する。プロプスガッセ(Probusgasse)の通りは、ハイリンゲンシュタットの歴史的な中心である。
歴史
[編集]地名の由来
[編集]地名となっているハイリゲンシュタット(聖なる街)はキリスト教が伝わる以前からこの地が、聖なる地であることを示唆している。ハイリゲンシュタットが最初に文書に記録されたのは1120年に聖ミカエル(St. Michael)に言及するものであった。ミカエルはハイリゲンシュタットの紋章にも描かれている。12世紀後半に書かれたSanctum Locumにおいて初めて言及されているが、どこの場所が神聖な場所なのかは不明である。ハイリゲンシュタットの地区教会に葬られたカトリックの聖人であるノリクムのセウェリヌス(410~482)がかつてこの地で暮らしたと言う説には反証があげられている。
先史時代から中世まで
[編集]ハイリゲンシュタットに最初に人が住み始めたのは5,000年以上前とされている。古代ローマ期の居住跡も発見されている。1872年、この地域のものであるとされ証明されたリーメスの一部である塔の壁が発見された。古代ローマの共同墓地も聖ジェームス教会近くで発見され、6世紀頃のアヴァール人の墓地も発見されている。900年頃からフランク人が続いてやってきて、最初の教会を含む住区が、現在のプファール広場(Pfarrplatz)付近に集まっていた。彼らは農業を行い大部分はそれを糧にして、ドナウ川(現在のハイリゲンシュテッター通り付近。)でカニや魚などの漁も行っていた。ワインも作られており、ワインセラーがハイリゲンシュタッター通り沿いの丘の側から発見されている。クロスターノイブルク僧院が1250年頃、この地で葡萄園を所有していた。1304年、ヴァインハート=フォン=パッサウ司教は教区の司祭の死後、ハイリケンシュタット教区の僧院の権利を与えた。中世、ハイリゲンシュタットは豊かな地の一つであった。
1318年の文書ではこの地方随一とされた。ウィーンやハイリゲンシュタットなどウィーン郊外の町や村は15世紀から16世紀に戦争による被害を受けている。ハンガリー王マーチャーシュ1世は1484年ハイリゲンシュタットを荒廃させ、1529年にはオスマン帝国による第一次ウィーン包囲での略奪行為によって教会は大きなダメージを受けた。しかしながら、1534年にはデープリング、グリンツィング、ハイリゲンシュタットなどこの地の教区に属する住民たちの寄付によって再興が可能となった。
中世以降から19世紀
[編集]宗教改革時にはハイリゲンシュタットの大部分では被害は無かった。1683年の第二次オスマン・トルコウィーン包囲で住民は犠牲となった。多くのハイリゲンシュタットの住民は虐殺され、土地も荒廃した。ハイリゲンシュタットの経済回復は18世紀後半に温泉を使った公共浴場の建設であった。毎日、300人ほどの人が浴場や隣接するレストランを訪れた。しかし、1875年のドナウ川河川工事以降ハイリゲンシュタットや市立公園のウィーンの温泉は涸れてしまい、ハイリゲンシュタットの浴場界隈の建造物が取り壊され、真直ぐの通りGrinzinger Straßeが通され、その脇に現在の公園が開かれた。19世紀からの中産階級の勃興によりハイリゲンシュタットは、夏の避暑や富裕層の居住地として発展を続けてきた。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、耳の治療もかねて温泉保養に来たときに、ハイリゲンシュタットの遺書を書いている。1851年にウィーンの行政区再編が始まり、ホーエ・ヴァルテ地区が設立され、1873年にはぶどう畑を切り開いて作った住宅地の奥にハイリゲンシュタット墓地が開かれている。
ハイリゲンシュタットは18世紀から19世紀にかけて急成長した。1795年には3つの通りに60戸470人だった人口が1832年には94戸677人になり、1870年には244戸3,393人となった。1890年には工場も開かれ、人口は5,579人に達した。60年間で戸数は3倍以上になっている。6,000平方メートルのハイリゲンシュタット池は住民の生活用水や、建設ブームによって犠牲となっていた。その結果、汚染の問題となり1920年代まで続く。
ウィーンとの併合後
[編集]ウィーンの外環状城壁リニエン・ヴァル取り壊しの後、1892年にハイリゲンシュタットは周辺のジーヴェーリング(Sievering)、グリンツィング(Grinzing)、オーバーデーブリング(Oberdöbling)、ウンターデープリング(Unterdöbling)、ヌスドルフ(Nußdorf)、カーレンベルガードルフ(Kahlenbergerdorf)と共にウィーンに併合された。1898年にはオットー・ワーグナーによる鉄道駅がカイザー・フランツ・ヨーゼフ鉄道と、1870年に運行を開始したウィーンシュタットバーンの乗り換え地点としてハイリゲンシュタット駅が開かれている。今日、このハイリゲンシュタット駅はウィーン中心部やウィーンのすぐ北クロスターノイブルクへ向かう路線バスのバスステーションとしても使われている。鉄道路線はウィーン地下鉄U4がウィーン・ミッテ駅方面からウィーンSバーンS40がフランツ・ヨーゼフ駅から、S45がヒュッテルドルフ駅からそれぞれ結ばれており中心部への利便性が高い。
第一次世界大戦の後、ウィーンに社会民主主義の市政府が成立し、労働者階級の劣悪な住環境を改善するため、大量の市営住宅を建設した。その一環でハイリゲンシュタットに集合住宅カール・マルクス・ホーフが建てられた(1930年)。現在のカール・マルクス・ホーフ界隈は12世紀頃には交易船が通るドナウ本流の一部で、後に果物や野菜の菜園になっていた土地であった。カール・マルクス・ホーフは1382戸でオットー・ワーグナーの弟子カール・エーンの設計、ウィーン市の技術監督により建設されている。1934年にオーストリア内戦が起こると、ここに反政府の労働者たちが立て籠もった。
元々はドナウ川から広がる丘陵地帯に葡萄畑が広がっていたが、19世紀には工場の立地が進んだ。
観光
[編集]ベートーヴェンは難聴が進行する中、1802年4月から10月にかけてハイリゲンシュタットで静養している。現在ベートーベン記念館として保存されているプロプスガッセ(Probusgasse)のパン焼き小屋滞在中に『ハイリゲンシュタットの遺書』を書いている。その北数百メートルに小川沿いの「ベートーヴェンの小路」がある。 [1]
ホイリゲ
[編集]郊外のホイリゲ(ワイン酒場)が集中している所がある。
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聖ミハエル教会
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聖ヤコブ教会
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ベートーベン像(「ベートーヴェンの小路」)
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ハイリゲンシュタッター公園
脚注
[編集]- ^ ハイリゲンシュタットのベートーヴェン - コトバンク
外部リンク
[編集]- オーストリア・ウィーン:グリンツィヒとホイリゲ (ドイツ語)