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ノート:0の0乗/過去ログ1

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過去ログ1 過去ログ2

参考までに、英語版では en:Exponentiation#Zero to the zero power に記述があります。--白駒 2007年12月21日 (金) 15:34 (UTC)

0の0乗 = 0の記述への疑問

「0 の冪は常に 0」 は誤りです。負冪では0の逆数となりますから。「0の0乗 = 0」については、そんな主張も利便性もほぼないと考えます。あえて書くべきか、根拠を示してください。--風船 2008年10月16日 (木) 14:38 (UTC)

0の負冪が定義されないことについてはすでに脚注で注意されてあります。「0の0乗 = 1」がどんな場合にでも正当性を持っているとは言えないことを簡潔に示すためにも今のような形で「0の0乗 = 0」と考えられる場合についてふれておくことに意義があるのではないでしょうか。--Makotoy 2008年10月18日 (土) 11:10 (UTC)
◆「0 の冪は常に 0」はもちろん定義されている部分についての話です。導入部ですから、変に正確に書くよりは、簡潔に記した方がよいと考えました。「0の0乗 = 0」とする立場については、私が書いたのではなく、初版からあることを、まずはお断りしておきます。利便性については、例えば次のような例が考えられます。
a mod m で「am で割った余り」を表すことにします。素数 p に対してべき剰余 an mod p を計算したいとします。フェルマーの小定理より、pa を割らないならば、
an mod p = (a mod p)(n mod p-1) mod p
となります。底や指数が小さいため、右辺の方が計算しやすいのです。pa を割り切る場合にもこの式が成り立つようにするためには、00 = 0 と定義する必要があります。
--白駒 2008年10月18日 (土) 15:34 (UTC)

修正前の版ならば、正の方向からの極限値が0であることを示しているに過ぎませんから、誤りではありませんでした。 しかし、「0 の冪は常に 0」という記述は、正の冪に対しても、負の冪に対しても、常に0であることを表しています。 そのすぐ次の「0 乗は常に 1」は、まさにその意味で使われています。 導入部だから、厳密には正しくなくても良いというのは成り立ちません。 Wikipediaの記述が、そのまますべて引用されるとは限らないからです。 「0の0乗 = 0」とする立場がある、その根拠は「0 の冪は常に 0」だから、という風に引用されるかもしれません。

また、利便性の例として示されている計算式ですが、倍数かどうかの判断は簡単ですので、条件式一つの違いです。それを右辺のように変形して計算するとのことですが、「0の0乗 = 0」を採用しているプログラム言語は存在していないので、結局ここで条件を判断する必要があります。プログラムの手間も減らないし、計算時間も減らないと思います。 もちろん、「0の0乗 = 0」という主張の魅力が大きければ、そう定義したプログラム言語が存在し、条件式が一つ減る、ということも起こりえますが、実際にはそうではありません。

「0の0乗 = 0」とする立場には、0xについての微分値の問題が存在します。「0の0乗 = 0」であれば、微分値も0となりますが、実際に微分した関数はx → +0 では未定義となります。 「0の0乗 = 1」を定義した場合の問題点は、すでに記述されていますので、「0の0乗 = 0」を主張する必要性もありません。 英語版にもないようですし、削除するのが問題が少ないように思われます。 --風船 2008年10月19日 (日) 04:55 (UTC)

「0 の冪は常に 0」という記述が負の冪に関してミスリーディングであって、それについて今の形(脚注)よりも目立つ形で注意しておくことが記述の簡潔さを保持することに優先するというのであれば、本文の記述を変更するという道もあると思うのですが、なぜ記述の削除を提案されているのかそのメリットがいまいちわかりません。それと、現実世界のプログラミング言語の実装がどうであるかということや、あるいは個々の問題を解くときの利便性の問題と、数学的なものの考え方の可能性についての問題を上のコメントの第二段落で混同されていませんか?実際のところ「0の0乗 = 0」にはいくつかの場合(上で白駒さんが挙げた例など)にはそれなりの正当性を持つと言えるので、「0の0乗 = 1」を定義した場合の問題を指摘する以外にもこの立場を書いておくことにはなにがしかの意義があるということにはなりませんか。「0の0乗 = 0」を外してしまうと、「0の0乗 = 1または未定義」ということになってしまうと思うのですが。また、「0の0乗 = 0」としたときに微分値がうまく定まらないことは唯一の問題でも決定的な問題でもないのではないでしょうか。--Makotoy 2008年10月19日 (日) 06:10 (UTC)

個人的には「0の0乗 = 1」だけでも良いのですが、連続性に唯一問題があるので、そこまでは主張しません。でも、指数法則が適応できると仮定すると、「0の0乗 = 1」は求まるのです。逆に、その他の値では、指数関数ではなくなると考えます。よって、私はその他の値に、合理的根拠は見出せません。また、「0の0乗 = 0」に決定的な問題が存在するとは言いませんが、微分値に解釈が2通り存在し、その説明のためには、0と未定義(log0・00)は等しいということにしなければなりません。そういう所まで、影響を広げたくないのです。

利便性をプログラミングの問題に置き換えたのは、白駒さんが計算しやすいということで例を挙げたからです。理論として解りやすいということなら、別の言い方をしたでしょう。 このフェルマーの小定理を使った話が、本文に載せられるほど一般に認められた話とは思えません。 --風船 2008年10月20日 (月) 23:13 (UTC)

残念ながらここまでのやり取りを通じて風船さんのご提案がそれほどよくねられたものではないのではないかと言う印象を抱くに至りました。例えばはじめのコメントで「00 = 0 は誤り」とおっしゃいながら、後のコメントでは10月19日 (日) 04:55 での「主張に魅力があれば」、10月20日 (月) 23:13での「本文に載せられるほど一般に認められた」など、基準を正誤の問題からより曖昧な、有用性とか知名度の問題にすり替えてしまっています。そもそもこの文脈では、どれほど「00 = 1」という規約が都合の良い例を挙げたとしても、「00 = 0 は場合によっては正当性を持つ」という立場を否定することにはつながらないのです。この問題をおいておくとしてもまだ、風船さんがご自身の立場の正当化のために指数法則であるとか微分の話を持ち出すのも首を傾げざるをえません。これら(や、連続性の議論)は基本的には「00 = 0」と「00 = 1」のどちらも立場も同じ程度に正当化してしまうものです。
そもそも風船さんの最初のコメントを振り返るに、「0の負冪が定義されない」ということが脚注に行ってしまい、本文だけでは誤解を招きかねない表現であったのが問題だったのだと推察いたします。それならば、現在脚注になっているところを本文に組み込むということでこの話は終わりにしませんか。ご検討をよろしくおねがいいたします。--Makotoy 2008年10月21日 (火) 12:05 (UTC)

>でも、指数法則が適応できると仮定すると、「0の0乗 = 1」は求まるのです。

本文や冪乗の項にもあるように、指数法則を指針としてx^0=1を結論付ける推論を正当化するためにはxは可逆でなければならないが、乗法的に特異である0はそうではないので「求まる」とするのは論理的に誤りです。

そもそも、素朴な意味での冪乗x^nは「xをn個掛け合わせたもの」であって、nは(0を含まない)自然数であり、「0乗」の値を定める(もっと素朴に言えば「0個掛ける」とはどういうことかを定義する)というのは、定義の拡張、一般化の作業なわけです。そして既知の0^nを一般化して0^0を定めようとするならば「常に0^n=0だから0^0=0と定めよう」というのは誤りどころか自然なやり方のひとつであるといえるでしょう。このとき、定義してもいない「負冪」を持ち出すのは論理的にナンセンスであることになりますから、その意味でも風船さんの論の持っていき方はいささか乱暴であるというように見受けられます。ですから、上で白駒さんが挙げておられる通読性も含め、負冪云々を本文に持ち込むのは妥当な判断とはいえないだろうと申し上げます。

少なくとも議論をするならばその前提として、「ある概念Aが別の概念Bの一般化である」というのは「概念Bをある特定の条件C下に限定すると概念Aが再び現れる」ということに過ぎないのであって、一般には無数の一般化が考えられる中で、ある程度「素性がよく」・「一意的」であるものを妥当な一般化であると言っているのに過ぎないということは諒解されなければいけません。ここでいう「妥当性」は絶対的なものではなく相対的なものであるということも理解されて然るべきです。たとえば、実解析では連続性を、複素解析では解析性をと言った具合にそれぞれの分野での手法が使いやすいものを「素性がよい」ものとして選び取るわけです。そうして、0^0にとっては指数法則や連続性ですら強すぎる条件で、「これならば」というものがそんなにない。そうなると「そういうのは普通は定義しない」というのが大部分の数学屋のスタンスなわけです。

なお、プログラミングや多項式・冪級数などが例に出ていますが、そのほとんどは1->x^0によって係数環を多項式環に埋め込んで定数項を係数環の元と同一視しているということであって、このとき代数的には不定元xはどんな関係式をも満足しないということもあわせて考えると、「x^0(≡1) にx=0を代入すると0^0になるじゃないか」という主張は少し的を外しているのではないかとおもわれてなりません(実際、乗法単位元を持たない環を係数環とする多項式環では同一視ができず、x^0はx^0以外の何物にもなれません)、まあ個人的な感想ですが。

0/0だとか0^0だとかに変なロマンを持つ人はまあ結構いますよね。一般に複数の流儀がとりうるような数学的事象に対して、自説をまるで唯一絶対の自然の神秘を解き明かしたかのように信奉する人も少なくなく、そういった人たちの主張を読まされたり相手をさせられたりするのは飽き飽きというのが正直なところで、(と言ってもこの件がそうだというつもりはありませんが、しかしそういった事情があるので)この件に首を突っ込みたくは無かったのですが、どうも提案者の話が迷走してるように感じられたので、少し書きました。まあ、読み流していただいて構いません。

--以上の署名のないコメントは、218.251.73.138会話)さんが 2008年10月21日 (火) 23:19 に投稿したものです(--白駒 2008年10月22日 (水) 11:59 (UTC)による付記)。

まず、誤解があるようなので、断っておきます。 「00 = 1」を主張している訳ではありません。あくまでも未定義です。 「00 = 0」を削除するという意見も、「0 の冪は常に 0」さえ修正するならば、その後の利便性うんぬんの話は主観の問題ですから、削除する根拠までは示せないでしょう。「0 の冪は常に 0」は誤りですが、利便性の否定は曖昧な話にならざるを得ませんから。 でも、xy × xy = xy と xy = x-y の2式からは、xy = 1 であって、これを 0 かも知れないという主張は、もはや指数関数ではないと言っているように思えます。これは、素性がよくない一般化です。 そういう例を持って来てまで、ここで再び「00 = 1」を否定する理由が分からないのです。すでに連続性に問題があるのは示しているので、大多数の人にとって0の0乗は未定義です。もし「00 = 0」の明示に意味があるというのなら、それは利便性の面でしょう。0xの極限という記述だけでは、連続性の問題を繰り返しているに過ぎません。残すのならば、(広く認められた)利便性の記述も加えるべきだと思います。そうでなければ、やはり削除を提案します。

なお、蛇足ですが、「xをn個掛け合わせたもの」に n=1 を代入した、「xを1個掛け合わせたもの」は、それ自身では意味が不明で、「xに何も掛け合わせないもの」と解釈した場合だけ自明となります。乗算は二項演算子ですので、引数は2個必要なんです。それを説明もなしに使えると誤解するのは、x1 = x2 / x と考えてしまうからです。べき乗の定義を指数法則と矛盾なく決めるから、x1 = x が出てくるのです。つまり、「xをn個掛け合わせたもの」はべき乗の素朴な定義じゃありません。(この文章、ますます00 = 1 の主張に近くなってますが、言いたいことはそうではないので誤解なきよう) --風船 2008年10月22日 (水) 04:35 (UTC)

> 「0 の冪は常に 0」は誤りです

それは誤りではないということを説明しました。なにを前提においてどの程度まで一般化を行おうとしているのか、と言った点はこの件ではとても重要で必要不可欠な視点です(そしてここでの前提はみなの共通理解の範疇であると考えられるところの「素朴な定義」が与えられた時点とするのが妥当ではないかと言っています。つまり冒頭の導入部分において、既知なるものは自然数冪のみとして考えるべきです)。しかしあなたのこの主張からは、なにか超越的な立場で最初からかなり広い領域での冪乗が天下り式に決定されているかのような錯覚を起こしているのではないか、という懸念を抱かざるを得ないのです。

> でも、x^y × x^y = x^y と x^y = x^(-y) の2式からは、xy = 1 であって、これを 0 かも知れないという主張は、もはや指数関数ではないと言っているように思えます。

ですから、それ(というか後の式)が論理的に正当であるためにはxが可逆であることが必要であると繰り返し言っています。誤解を恐れずに言うならば、あなたは論理的な飛躍を以って偽の前提を作り出し、それで「冪函数や指数函数でないと主張するのか」と述べているわけで、前提が偽なら何でも言えてしまいますよね、と。

> これは、素性がよくない一般化です。

「素性がよい/よくない」は絶対的なものではなく、それぞれのローカルな議論における便宜によって決まる相対的なものです。あなたの主張も、意図的に条件式を取捨選択していて「こういう点では素性がよい/よくない」と言っているのに過ぎない、ということを認識しなおしていただけると話が前に進むのではないかと思います。

> 乗算は二項演算子ですので、引数は2個必要なんです。

これ、例えば「自然数が素数の積に一意的に分解できる」という文章に「素数は積に書けないから誤りだ」と主張することや、あるいは「 と書いてあるからn=2のときを計算しようとしたがという意味不明な式が出てきてしまってわけがわからない」というような主張をするようなものでしょう。こういうのは言っちゃ悪いと思いますが反論としてかなりナンセンスだとおもいます。なにか「素朴」という言葉の意味を誤解してらっしゃるようですけど、数学のステイトメントとしての「xの1個の積」とは(どういう式で書くかという点はあるにせよ、意味としては)という意味に他なりません(同様に「xのn個の積」は で、これはいくら2項演算の繰り返しに帰着できると言っても、それ自体はn項演算です)。そうして、はn=1の場合まで含め、素朴な意味で「正しい」と考えるのが妥当だと皆がおもうでしょう。なんというか、

> べき乗の定義を指数法則と矛盾なく決めるから、x1 = x が出てくるのです。

のほうが随分無理矢理な主張だと思いますよ。
それと、ある程度の仮定を課すと定義不良になってしまうという状況に「未定義」という不適切な語をつかっているのも、ここでの議論をなんとなく胡散臭いものに見せている要因の一つでしょう。定義「しない」あるいは「できない」ということを指すのに、「いつかはそうなる」というニュアンスをもつ「未」をあてることはないでしょう。
そもそも「0^0は "まとも" に定義できない」ということについては意見が一致しているわけで、そのことの説明のひとつとして「たとえば0だとしたらこういう意味ではうまく行くがこういう点で破綻する、1だとしたらこういう意味ではうまく行くがこういう点で破綻するetc」という文章を記述してあるのであって、風船さんの言っている(とはいっても振り返るとどうも主張に一貫性が無いように読めてしまいますが)「0^0=0は妥当性が無いから消すべきだ - 2008年10月19日 (日) 04:55 (UTC)」あるいは「0^nは常に0というのは誤りだから削除しよう - 2008年10月22日 (水) 04:35 (UTC)」という旨の主張のは、目的を見失ってあさっての方向を向いてしまっているのではないですか、というのが他のお二人も仰ってることではないのかとおもうのですが、どうですか。
少なくとも確認しておくべきことは、数学としては「連続性に問題がある」からその定義を捨てる、ということにはならないですよ、ということです(あるいは、いくつもの立場を取りうるから複数の流儀の一つを絶対視しないのだ、と言ったほうが適切かもしれません)。そして、定義は決してひとつだけではないということです。それが自己矛盾を孕むのであれば問題ですが、そうでないならば(大雑把に一致してさえいれば)無条件に決めきれない細かい部分はそれぞれの議論の便宜を図る規約という形で用意すればよいということです。数学の定義というのはそういう意味ではかなり柔軟なものです。「ある定義の仕方がこういう場面では意味を持ちうる」ということの例を挙げるのに有名も無名も関係ありません、Makotoyさんもご指摘のように、「白駒さんの例は有名ではないからダメだ」というのは議論のすり替えだと思います。

> そういう例を持って来てまで、ここで再び「0^0 = 1」を否定する理由が分からないのです。

そうですね、しかしそれと同じくらい我々にはあなたが「0^0=0」を否定しようとする理由がよくわからないのですよ。--以上の署名のないコメントは、218.251.72.176会話)さんが 2008年10月22日 (水) 06:41 に投稿したものです(--白駒 2008年10月22日 (水) 11:59 (UTC)による付記)。

ええと、双方に申し上げたいのですが、短期間に連続して長文を投稿するのは控えませんか。デメリットとして、周りがついていけなくなる、論点が拡散して議論がまとまりにくなる、不必要に感情が高ぶってしまう、といったことが挙げられます。私も言いたいことはたくさんあるのですが、なるべく論点を絞っての投稿を心掛けるつもりです。

さて、「0の冪は常に0は誤り」という風船さんの主張は分からなくもありませんが、この文が「0の負の数乗や0の0乗も0」と言っていると考えるのは、拡大解釈です。そんなものは元から定義していないのですから。風船さんも「0の虚数乗や、0のハナモゲラ乗まで0」と解釈したわけではないでしょう? それと同じことです。まあ、言葉遊びはそれくらいにして、文章を書くときは読み手のことを考えなければなりません。正確性を期して「0の正の整数乗、実数の正の整数乗、および0でない実数の0乗は既知とする」などと書くことはできますが、それでは元々分かっている人にしか内容が伝わらないでしょう。私は当該部分を、中高生くらいの読者が入り込みやすいように、と意図して書きました。そして、前節の内容とのつながりからは、先の注意書きは暗黙の了解とも取れますし、少し先まで読めばより正確な内容があるのですから、これで問題ないと考えています。

「Wikipediaの記述が、そのまますべて引用されるとは限らない」ということを心配されていますが、そのような心配をする必要はないと考えます。Wikipedia に限らず、「A という主張が考えられる。しかし筆者は B と考える」という文章があったとして、前半しか引用しなければ、明らかに筆者の意図するところではありませんが、それは引用する側の問題です。

結局、私の文章も長くなってしまいました(汗)が、ひとまず以上です。--白駒 2008年10月22日 (水) 11:59 (UTC)

短くなるように、論点を分けます。「0 の冪は常に 0」の記述について、利便性について、そして妥当性について、の三つです。記述については、「0 の正の冪は常に 0」に変えたらどうか、という程度で提案しているのですが…。その意味を、正の整数乗と解釈されても、正の実数乗と解釈されても、実数部が正である複素数乗と解釈されても、問題は生じませんから。私は、負数を含むように解釈されかねない表現を、あえて使う理由を聴きたいのです。問題はそれほど生じないから、という回答では十分に納得できません。--風船 2008年10月22日 (水) 18:56 (UTC)
前後関係がつながるようにあえてその表現を使う必要があるのですが、風船さんのように納得できない方がいらっしゃるということは、私のこの編集が改悪だったということかもしれません。その前の版に戻すことにすれば万事解決でしょうか。--白駒 2008年10月22日 (水) 21:42 (UTC)

一日経過しても別の発言が付かないので、さらに追加意見を記述させていただきます。 なぜ今の表現を使うのかという質問に対し、前の版に戻すことが提案されていますが、これは直接の回答ではありません。 私の提案は、中高生程度でも理解できる表現という白駒さんの条件を満たしていると思いますが、それにも関わらず採用されないのは、正確に記述すると「00 = 0」の妥当性に疑念が生じるからと思えます。 「0の負の数乗や0の0乗も0」と考えるのは拡大解釈と言いながら、その考えから「0の0乗も0」を導き出すのは奇妙です。「常に」の定義域に「0」が含まれていると考える人だからこそ、その主張が出てくるのです。 --風船 2008年10月24日 (金) 01:06 (UTC)

残念ながら何をおっしゃりたいのかよくわかりません。白駒さんのコメントに「前後関係がつながるようにあえてその表現を使う必要がある」とあるのに前の版に戻すという提案だけをとらえて「直接の回答ではない」とおっしゃったり、「0の0乗も0」を「導き出す」ととらえたり(僕も白駒さんも00 = 0 が何かの前提から論理的に帰結するとは言っていないはずです。)、率直に言って、他の人からのコメントをちゃんと理解されているのかすら疑わざるをえません。言わずもがななことですが、風船さんがまわりの意見をちゃんと読み取りそれに乗っ取ってコメントを書いていただかないことには、他の人としても風船さんの意見を尊重することができません。これは緊急の問題ではないのですから、もうちょっと落ち着いて時間を取って他の人からのコメントを吟味してご自分の考えをまとめられてから書き込んでいただけませんか。ご検討よろしくおねがいいたします。--Makotoy 2008年10月24日 (金) 14:59 (UTC)

三つの論点を一つずつにしたり、記述を一日一回にしたりで、自分としてはペースを落としているつもりです。投稿にもかなりの時間を使っています。文章力がないのは、ご容赦ください。 『0 の冪は常に 0 だから「0の0乗 = 0」と定義するべきだ』という文章が、論理的な文章でないとか、「0の0乗 = 0」を導き出していないとか、そういうつもりなのでしょうか?私は、白駒さんが、これを結論として導き出していないことは理解していますが、この文章は、論理的にそういう結論を導く立場が存在する、ということではありませんか?

白駒さんが、苦しいながらもあえて今の表現を使っている理由は分かっているつもりです。 中学生の知識であれば、数が正の数、負の数と、0に分けられると考えます。 そう考える人に、正の数では何々が成り立つ、だから0でも成り立つはずだと説明しても、納得できないでしょう。 「0の0乗 = 0」を主張する立場の人が、定義域が正の数だけだからという理由で、表現により根拠を持たせたいために、「常に」という言葉を使いたいのはよく分かります。 でもそれは、誤った誘導です。根拠が薄くなったとしても、本来の表現に戻すべきと考えます。 それを十分な根拠と考えるかどうかは、読む人が判断すれば良いことです。

なお、「常に0」と主張する立場の人が元から存在せず、前の版の意味が、『0 の冪は 0 にいくら近づけても 0 だから「0の0乗 = 0」と定義するべきだ』であって、中高生に理解できるように「常に」という表現にしたことによって微妙に意味が変わってしまっている、ということであれば、前の版に戻すことに異論はありません。 --風船 2008年10月25日 (土) 04:58 (UTC)

(風船さんへ)どうしてこんなに話が噛み合わないのだろう、と真面目に考えました。ひとつの推測として、貴方は次のように考えているのではないか、と思い至りました。
世の中の人は、00 = 0 と定義する立場、00 = 1 と定義する立場、00 は定義できないとする立場にくっきりと意見が分かれている。
そうではないのです。大多数の良識ある数学者はね、普段は 00 を定義しない(「できない」のではない)。そして、必要に応じて(同じ人であっても)0 と定義したり 1 と定義したりする。それは意見が変わったとかいうことではないのです。その定義の元で何をしようとしているかによって使い分けている、ということなのです。
貴方は文章力がないということを自認されている。それは、書く場面だけでなく、読む場面でもそう。繰り返し回答はされているのに、それが回答だということさえ理解できていない。それは文章力だけでなく、数学の素養の問題でもあるでしょう。失礼ですが、ここまでの発言で、貴方に数学の素養がないということは、はっきりと分かります。ある程度の理解のある方が「読者が誤解する可能性があるから、よりよい表現にしよう」と提案しているのならば、議論する価値もあるかとわずかな望みを持っていました。しかし、これ以上のやりとりは、周りが疲弊するばかりで、記事の向上に資する議論にはなり得ないと思います。--白駒 2008年10月25日 (土) 11:25 (UTC)

僭越ながら、「大多数の良識ある数学者は」、「回答だということさえ理解できていない」、「貴方に数学の素養がない」、「記事の向上に資する議論にはなり得ない」などは個人攻撃と受け取られかねないので、気を付けた方が良いです。反論する気はありませんが、どんな場合も議論する相手を限定すべきではありません。もし議論する気がないという表明であるなら、本文の内容はあなたの手から放れると考えてください。

私がそう主張する立場の人と言ったのは、その瞬間その場面でそう主張する立場の人、ということです。たとえ一瞬であっても、そう考えるならば、そう考える理屈が必要です。私はその時の理屈として、今の記述が正しいのかどうかと言っているのであって、理屈は存在しなくても良いということはありません。正しいと信じるならば、その理屈を公開してください。その場合、私の文章の何々が他の部分と矛盾しているという形での指摘は、分かりやすい方法です。 --風船 2008年10月27日 (月) 02:45 (UTC)

次のふたつには同意しますか?
  • 00 = 0 を論理的に導くことも、00 = 1 を論理的に導くこともできない。
  • 00 = 0 と定義しても、00 = 1 と定義しても矛盾は起こらない。
同意するなら短く Yes と、同意しないならその理由をお答え下さい。--白駒 2008年10月27日 (月) 09:23 (UTC)

No です。00 = 0 には、極限値以上の意味はありません。 指数法則の成立を要求すれば、00 = 1 が導かれます。理由は、二番目、三番目の論点となりますので、控えさせていただきます。それを示した方が良ければ、これを保留にして次に移っても構いませんが…。なお、指数法則が成り立つべきかどうかには議論の余地があるので、1と定義する立場と定義できないとする立場が存在します。 --風船 2008年10月27日 (月) 13:06 (UTC)

「指数法則の成立を要求すれば、00 = 1 が導かれる」の意味をもう少し詳しく説明して頂けないでしょうか。--白駒 2008年10月27日 (月) 14:26 (UTC)
  • xy × xy = xy
  • xy = x-y

この二式が、00では成り立つと考えるからです。xy=1 でなければ、どちらかが成立しません。--風船 2008年10月27日 (月) 16:21 (UTC)

私の知っている指数法則は
  • am × an = am+n
  • (am)n = amn
ですが、貴方のいう指数法則とはこれとは別のものなのでしょうか。--白駒 2008年10月27日 (月) 16:38 (UTC)

さかのぼって、三番目の論点に入っていると判断します。また、長くなっているので節を分割します。

a=x, m=n=y と置き換え、y=0 であれば、y+y=y が成り立つので、最初の指数法則は次のようになります。これは、一つ目の式となります。

xy × xy = xy+y = xy

a=x, m=y, n=-1 と置き換え、y=0 であれば、-y=y が成り立つので、二番目の指数法則は次のようになります。これは、二つ目の式となります。

(xy)-1 = xy×(-1) = x-y = xy

--風船 2008年10月28日 (火) 01:01 (UTC)

きつい言い方になってしまい非常に申し上げにくいのですが、風船さんのコメントを見ていると 1) この件に関する数学的知見、2) この件についての数学的な事象を人に伝わるように表す能力、3) 他の人からのコメントを理解する能力、のどれをも欠いていらっしゃるように見えます。 2008年10月27日 (月) 16:21 (UTC) のコメントは非常によくそのことを表しているし、風船さんによる他のコメントも部分的には数学的に正しくても、つじつまの合わない部分や表記どおりに取ると明らかに間違っている部分が多すぎ、何をおっしゃろうとしているのか推測するのにも白駒さんや僕にとっては非常な困難を伴っている状況です。(できればこのような指摘を個人攻撃と混同しないでいただきたいのです。なぜなら今問題になっているのは風船さんがこのノートでかれていることの内容自体についてなのであって、別に風船さんご本人の性格、履歴、人種、宗教、性、国籍などを問題にしているわけではないからです。)
ウィキペディアは質問サイトではないので風船さんがどこをどう思い違いしていらっしゃるのかについていちいちご指摘さし上げることはできません。まずは他の場でご自身以外の方に風船さんの考えていることが果たして妥当なことなのかを相談して、ウィキペディアの記事に関わるのはそのあとにしていただけませんか。原則としてウィキペディアの記事は誰でも編集可能だし、ウィキペディアの記事の質の向上に貢献されようという熱意はとてもありがたいわけですけれど、それでもやはり自分が理解していることについて間違いのないように注意をはらって書くべし、というか自分がわからないことには手を出さない、という分別は暗黙のうちに期待されている(別にウィキペディアに限ったことではないですが)ことをご理解ください。--Makotoy 2008年10月28日 (火) 08:55 (UTC)誤字修正--Makotoy 2008年10月28日 (火) 10:53 (UTC)
Makotoy さんへ)見苦しいところをお見せして申し訳ありません。「議論しないのなら関わるな」とまで言われては、黙っているわけにもいかず、一度とことん話を聞いてみようと考えたものですが、ご迷惑ならば止めておきます。(皆様へ)この話題はかように誤解を生みやすいものです。よって、私の書いた文章がベストだとは私自身も考えておりません。繰り返しになりますが、理解のある方がよりよい表現に直して頂けることは大歓迎です。(付記)私の発言に、私の意図に反する節名を付けられるのは困るので、節分けを解消しました。--白駒 2008年10月28日 (火) 10:22 (UTC)

数学的誤り以外の指摘を気にする考えはありません。 ところで、「話を聞いてみようと考えたが止めておく」と受け取られかねない表現ですね。 本当にそうならば、ノートでの合意形成を放棄され、本文の編集にノートでの合意が必要ない(それ以外の選択肢が無くなった)と解釈します。 まあ、生産的ではないですが…。

an mod p = (a mod p)(n mod p-1) mod p

について、a=5, n=0, p=5 の場合には 00 = 0 では等号は成り立ちません。よって、この例は、00 = 0 の利便性を表してはいません。 --風船 2008年10月28日 (火) 14:45 (UTC)

私はもう少し対話を続けても構わないのですが、他の方の迷惑になることを恐れるものです。ウィキペディアは百科事典を作る場所だ、という大原則を思い出して下さい。なお、合意形成とは、必ずしも最後の一人が納得するまで対話することを意味しません。貴方に賛同する者が現れない、という事実を受け止めて下さい。00 = 0 とする利便性については、私の説明不足だったかもしれません。応用上、べき剰余 an mod p を計算するのは、a, n, p が巨大な数であることが多いものですから、それらが正であることは言わずもがなのことと考えていたのです。この公式から得られる諸結果について述べる際に逐一「pa を割らないとき」と注釈を入れる手間を省くために、00 = 0 と約束しておくことは合理的です。--白駒 2008年10月28日 (火) 16:25 (UTC)

利便性の話は、ここまでにしておきます。利便性は人によって考えが違うので、合意形成は難しいですから。 なお、合意形成が最後の一人までの納得を意味しないことは理解しますが、それは双方の意見が出尽くした後の話です。話し合いにならないからと、途中で止められる理由にされてはたまりません。白駒さんが執筆者ですから、白駒さんがどういう知識を前提にしてあの文章を書いたのか、その開示がないと先に進みようがないことをご理解ください。話が続くことを強く希望します。

2008年10月28日 (火) 01:01 (UTC)の式については、以前に「xが可逆であることが必要である」とのコメントが付けられました。でも、x-1 は、式中に使っていません。もしお分かりでしたら、このコメントの意味を教えてください。 --風船 2008年10月29日 (水) 09:41 (UTC)

なるべくなら納得して頂きたいとは思いますので、もう少しコメントします。ただし、話し合いにならないことは、話し合いを止めるに十分な理由ですので、ひとまずは最後のコメントとさせて頂きます。長文失礼。
  • (00 = 1 を「導く」議論について)可逆うんぬんのコメントの意味は冪乗を参照してください。Makotoy さんもおっしゃっているように、ここは質問コーナーではありませんから、理解できない人に丁寧に説明する義務はありません。ともかく、(am)n = amn は、a = 0 かつ mn ≤ 0 のときには(通常の数学の枠組みでは)意味が不明です。しかるに、風船さんの主張は「それでも成り立つ」という「自分ルール」を作れば 00 = 1 となる、ということに過ぎません。それは、0x = 0 が x = 0 でも成り立つ、という「自分ルール」を作れば 00 = 0 となる、という議論と何も変わるところはありません。「自分ルール」を作るのは勝手ですが、多くの知識人がその妥当性に同意しなければ、広く認められたルールとはならないでしょう。
  • (私の書いた内容について)クヌースは、自分が 00 = 1 としたい理由について、「関数 x0 の方が、0x よりも重要である場面が多い」と述べています。ここで 0x を持ち出しているのは、00 = 0 とする考えを意識しているからに他なりません。その考えを、なるべく分かりやすく解説したのが私の書いた部分だと理解しています。そもそも、00 = 0 も 00 = 1 も、そう決める必然性はないのですから、攻撃しようと思えばいくらでも攻撃できます。風船さんは 00 = 1 と信じているから 00 = 0 が鼻につくようですけれども、公平に見れば 00 = 1 も同じなのです。片方だけ削除を求めるのは偏った考えだと私は思います。
文面が誤解を招く可能性がある、ということは謙虚に受け止め、一旦前の版に戻しました。もう少し推敲してみることにします。--白駒 2008年10月30日 (木) 16:36 (UTC)

ルールの違いをやっと明らかにしていただき、ありがとうございます。(am)n = amn は、a = 0 かつ mn ≤ 0 のときには意味が不明という文の意味は理解できます。 「自分ルール」と言われているのは、mn ≤ 0 を mn < 0 へと変えているということでしょう。負の場合に意味不明という部分は同意ですが、0 でも成り立つという「自分ルール」は信じています。でも同時に「自分ルール」であることの自覚もありますから、00 が未定義だということは、現時点で否定しないのです。

私の懸念は、00 = 0 を定義をすると、自分自身の逆元であることを否定していることです。それは、指数法則に従うように定義した関数が、指数法則を破ることを明確に示すことになります。未定義なら、そもそも逆元は存在しませんから、指数法則を破っている訳ではありません。00 = 1 という定義も、指数法則を破っていません。こういう違いがあることをご理解ください。 現在の状況は、00 = 0 という記述が存在したということを以って、根拠とされているように思えます。出所も根拠も不明、指数法則が破られて良いと考えていたかも不明なのです。間違って書かれた可能性を疑うのは、当然と考えます。 --風船 2008年10月31日 (金) 09:32 (UTC)

再修正

中立で誤解のない表現を心掛け、本文を修正しました。ポイントは以下の通りです。

  • 元の文章での「立場」という表現が誤解を招く原因だったのかもしれません。クヌースが 00 = 1 と定義するのが妥当だとする「立場」であることは間違いありませんが、多くは 00 = 0 とする考えも 00 = 1 とする考えも一理あるからあえて定義しない、とする「立場」です。ですから、00 = 0 とする「考え方」、00 = 1 とする「考え方」という表現の方がしっくりきますし、「立場」という表現は除きました。
  • 元々のクレームは、00 = 0 とする「考え方」などあるのか、ということでした。啓蒙書のようなものを挙げるのは気が引けておりましたが、『秋山仁と算数・数学不思議探検隊 』森北出版、1994年 ISBN 4627016107 に、「0の0乗は 0 とも 1 とも思える」といった内容があります。
  • 初版に比べて、内容が洗練されたという自信はとてもありません。ある程度仕方のないことだったのかもしれませんが、お恥ずかしい限りです。

--白駒 2008年11月7日 (金) 15:11 (UTC)

この修正で、風船さんにも御納得頂けたようです。このまま何も意見が付かなければ、一週間を目処に本ノートを過去ログ化しようと思います。--白駒 2008年11月8日 (土) 17:21 (UTC)