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ノート:鹿落坂

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イノシシの北限

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江戸時代には宮城県に棲んでいなかったと書かれていましたが、「宮城県イノシシ保護管理計画について」[1]や、「動物あれこれニュース」なるサイトに引かれている記事[2]によると、明治時代まで東北地方一帯にいたそうです。削らせていただきます。「シシは鹿か猪のことであるため、原義としては猪もありうる」は私が何かの本によって書いたものなのですが、今ではそれが何の本だったかわからずにいます。気にかけてはいるのですが。--Kinori会話2012年6月17日 (日) 18:21 (UTC)[返信]

引っ越しましたよ~

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うわぁ以前はイノシシかシカかなんてことで労力費やしていたのですね。ちょっと情けないですね。カモシカは古い種族で、人との関わりは、ちょっと一言ではおつたえできません。アニメ「もののけ姫」のデイダラボッチをイメージしてみてください。
それと、カモシカの特性、崖の上でじっとして崖の下の方向を向いている(見ている)。頭はそれほど下を見ていないのです、崖の対岸と言うか、沢の向こう側の崖と言うか、そういうところを見ているのです。それが、カモシカに、賢さが何か深い思考を感じる理由だと思います。

鹿落坂に首を傾げています あれはカモシカのことではないですか?

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「シシは鹿か猪のことであるため」って・・・宮沢賢治とか宮城県・岩手県南部の風物に詳しければ、こうは書けないと思います。なぜ、カモシカを主体として考えないのでしょうか。「シシはカモシカもしくは鹿、イノシシのことである。」が妥当なところです。

それから、鹿落坂については、間違いなく芭蕉が歩いているし、西行だってそう考えるのが妥当である、由緒ある地名です。
貴殿には、酷かもしれないが、そういう嗅覚とか、感性、土地勘、がまるでないのに、単に文献の操作だけで、百科事典を記載しようとするから、仰向けに転ぶのです。
この部分、貴殿も引用してないですから、単に知識が乏しいというだけのことなのですね。シシとは(自明のこととして)鹿あるいはイノシシと考えたのでしょうね。無知を晒しましたね。
私はウィキペディアに協力しません。私は、ウィキペディアの記載と編集を評価し、場合によっては執筆者の質の悪さを告発するものです。ですから、この場で論拠を挙げ、文章の変更を要求することはないのです。私の発言に知的な触発を得て、自分で調べる人がいれば、それで良いのです。
ウィキペディアの執筆者の詐術に掛からないようにしてください。私がこのような行動を取る端緒を紹介します。 [[3]]

--GarnetiteCat会話2016年3月26日 (土) 10:00 (UTC)[返信]

ウィキペディアでは、土地勘や嗅覚で記事を書いてはいけないのです。それが正しい場合でも、間違っている場合でも、読者の期待を裏切ることになります。--Kinori会話2016年3月27日 (日) 13:59 (UTC)[返信]


えっ、私 読者代表として執筆者に注文つけてるのですが?--GarnetiteCat会話2016年3月28日 (月) 10:43 (UTC)[返信]

芭蕉が通っているのなら、記載の価値はあるだろうと思い、『おくのほそみち』を見ました。そこには何もなく、『曾良日記』のほうに、若林川の川一つをへだてて、長町の出口、仙台の入口である、という趣旨の記述がありました。若林川(今の広瀬川 (宮城県))の長町の出口、仙台の入口とは長町橋(今の広瀬橋 (仙台市))のことで、これが奥州街道筋です。仙台に入るところの記述はこれだけです。わざわざ外れて鹿落坂を通ったのなら、それについて一言触れてしかるべきでしょう。そのまま長町橋から仙台に入ったと考えるのが素直な考えです。西行についても、何か文献的な根拠があって妥当だというのではありませんよね。
ニホンカモシカは、今でこそ都市近郊まで姿を現していますが、これは最近の分布拡大の結果だと聞いています。昔の仙台にカモシカが出没していたことを当然視することは私にはできません。ニホンカモシカであるという説が何かの文献にあるならそう記してよいですが、何もないならこのままがよいです。
しかし、こうした推測を並べて優劣を競うことに意味はありません。憶測の当たり外れを誇ったりするのはクイズ番組では良しとされるでしょうが、ウィキペディアにはWikipedia:検証可能性という方針があります。あなたの土地勘や嗅覚にそぐわないことがあるとしても、ただそれだけの感想なら書かないでください。--Kinori会話2016年3月29日 (火) 07:11 (UTC)[返信]



もう論争する気はないので、簡単に申し上げます。憶測は書くべきではない。しかし、貴殿の記述には、論拠のはっきりしない文章が多々あります。これは一体どう処理すればよいのですか。例えば、まず鹿(しし)をニホンジカと断定したこと。何の議論もなく、何の引用もなく、ヘラっと書いてるじゃぁありませんか。
今回の問題で言えば、広瀬川を渡ったのがどこであったか、そこに渡しもしくは橋ができたのはいつか。まさか自明なものとして現在の位置だとかいうのではありませんよね。
カモシカが「今でこそ都市近郊まで姿を現していますが、これは最近の分布拡大の結果だと聞いています。」というのも、根拠がはっきりしていませんね。カモシカが増えたというのはどうなのでしょう、鹿と、混乱していませんか。
どうしてカモシカを「除外」したのでしょう。くどくど言うより、端的に、「カモシカではありえない」という根拠を明示するべきですね。
芭蕉の件は余録ですが、中将の墓に寄ったことになっています。曾良日記では「行過テ不レ見」ですから、貴殿の指摘のとおりかも知れません。しかし芭蕉の文学的世界では、岩沼から愛島を経て山裾を縫って古道を行くと西多賀から鹿野、大年寺の裾を歩き愛宕から鹿落坂に至るルートが浮かんできます。これは仙台市立図書館で伝授された考え方で、根拠はありませんがおそらく仙台市史のどこかにそのような見解が書いてあると思います。主張する気はありません。すでに曾良日記の公開から年月を経ているからで、探して貴殿に示すのはモウコリゴリで、そもそも宮城県史の某巻をボロクソに貶したのに、仙台市史に書いてあるみたいな方向に議論を誘導する気は毛頭ありません。貴殿同様「そう聞いている」だけですから。憶測の優劣を競うつもりはありません。ただ、芭蕉の文学的な世界というものが、リアルな芭蕉の行動とは大きく異なるものであること、西行に強く憧れていたことを否定することは、あなたには到底できないでしょう。
要するに芭蕉の件は、せっかく美味しい素材があるのに料理しない、従って読んで知的刺激を受けない、面白くない、ひいては読む気持ちなくすと申しているのです。
ではでは~
--GarnetiteCat会話) 2016年3月29日 (火) 11:48 (UTC)--GarnetiteCat会話2016年3月29日 (火) 12:12 (UTC)[返信]
読者として、深刻な問題は、貴殿のような、表面ロボットみたいなガチガチの理詰めに見える所作を行いながら、理詰めには耐えられず、実態として詐術を弄する人物であること。このような人物が、宮城の記述を手広く行っているということです。
--GarnetiteCat会話2016年3月29日 (火) 13:36 (UTC)[返信]

私はあなたの推測に対抗する形で、自分の推測を書きました。どちらも推測に過ぎないから載せるべきではない、という趣旨です。上のほうで記したように、本文に書いたのは私の推測ではなく、下敷きにした資料はあるのです。どうしてカモシカを除外したのかと言えば、カモシカと書かれていなかったからです。鹿はカモシカである、というような独自説にもとづく記述をしてはいけません。とはいえいまだに出典を付けられないのは弱みですので、この一文は消しましょう。
中世の街道については学説に変動があります。中将の墓と鹿落坂を結ぶ丘陵寄りルートが本来の街道で、長町から国分寺付近に通じる低地ルートは近世になって開かれた新しい街道だ、という説がありました。しかし、近年になって、中世にも両方の道が機能していて、しかも低地ルートがメインではないかという説が現われました。前説を当然視することはできません。
このようなガチガチな形で組み立てる記事が、あなたにとっておもしろくないのは仕方がありません。しかしおそらくウィキペディアを利用する多くの人は、「文学的世界」から匿名筆者がふくらませた文章を読まされることのほうに、不信を抱くと思います。--Kinori会話)^



ああ、やはり編集の感覚が欠如していますね。料理の仕方次第で、貴殿の危惧するところを回避して、とても気の利いたgarnitureになるのに。惜しいなぁ--GarnetiteCat会話2016年4月2日 (土) 05:53 (UTC)[返信]

追加です、「鹿をシシと訓む場合、カモシカだよ。もしくはカモシカと鹿との混ざった集団?だよ。」という話は、アナゴをアナゴと呼ぶという話とともに、ガキの頃の常識でした。もちろん生物学的に二種が群れたり交雑したりすることはないでしょう。常識などという俗なもので他者を説得するつもりもありません。平地側の農民にとっては、丘を降りてくる厄介な集団が2グループかどうかを認識するより、低い柵では防げない厄介なグループとしてカテゴリー的にはまとめられたのでしょう。現在の西多賀、八木山、青葉山、金剛沢とかみんな丘陵の雑木林で、沢のトレンチはあっても、その西方の脊梁山脈までなだらかな丘陵がせり上がっていくわけですから、青葉城の西方は、天然の障壁であり、自然の天国だったわけです。そこは鹿(シシ)と呼ばれる生物群の生息地だったわけです。鹿野という地名は丘から降りてくる鹿(シシ)を防ぐため、防柵を築いたことの記憶に始まるようです。
むしろこの話にイノシシをどう絡ませるのか、成案がありません。(作業仮説はありますがもうその方向で進めませんヨ。イノシシがいなかったのではありません。私は竜の口から登って、化石でも死体でもなくて、崖の上にカモシカと遭遇しているし、更に生息が困難なはずの大年寺で数匹のウリ坊を見ています。親に合わずに幸いでした。鶉なら大歓迎ですが。)
現在では自然林の残滓が、東北大の敷地周辺、東北大学植物園、金剛沢あたりに破片のピースのごとく残っていますが、広域があまねく原野でした。所謂広葉樹林です青葉城が築城される前は更にです。ついでに言えば高規格道(東北道とその接続道路)とかができるまで、東北道周辺の南北の道路はただの砂利舗装の山道ですから、脊梁山脈との生物の交通も今とは隔絶したほど自由でした。
ほらほら、また私の記憶です。また、ですが、前回の話はで、詳細な資料を見て,考察していただければ「アナゴはアナゴ」で異論ないと思います。(もちろん資料には欠落があり、時系列に弱点があります。しかし貴殿や他の方が想定していたのとは違う次元で資料の集積があることが、現在の議論の基盤となりますので、私の見通しに粗漏がないことは揺るぎないと思います。パラダイムシフトですね。)今回はどう受け止めますか?
--GarnetiteCat会話) 2016年4月2日 (土) 15:34 (UTC)推敲--GarnetiteCat会話) 2016年4月2日 (土) 22:42 (UTC)推敲--GarnetiteCat会話2016年4月4日 (月) 14:21 (UTC)[返信]

遅すぎの感があるものの、カモシカの分布についていくらか本に目を通しましたので、記しておきます。
江戸時代の仙台藩では、ときおり藩主の指揮で数千人を動員して鹿狩りを行いました。場所は藩内のあちこちですが、奥羽山脈には立ち入りません。仙台郊外の権現山も含め、いわゆる里山です。種別の捕獲数が『伊達治家記録』に記録されています。毛利総七郎・只野淳著『仙台マタギ鹿狩りの話』(慶友社)は、治家記録にもとづき、時代を下るにつれ捕獲数が減少していることを示しています。獲られたのはほとんどが鹿と猪で、カモシカも獲れましたが、鹿と比べると桁2つほど違います。
明治時代の蔵王地方(宮城県南西部)の狩猟獣分布について、千葉徳爾が『狩猟伝承研究』後篇に図を載せています。奥羽山脈の深部にカモシカと熊、より東の丘陵地に鹿・猪と、帯状に分布が分かれています。仙台市は図から少し外れているのですが、鹿と猪の分布を北に延長した先に鹿落坂があると見てとれます。
そして、『狩猟伝承研究』後篇では、現在鹿は宮城県の北西部と牡鹿半島にしかいないと記してあります。そして、カモシカの分布が拡大しているようだとも書いています。同書は1977年刊ですので、1970年代の状況です。
1994年に出版された『仙台市史』自然編は、市内のほ乳類をすべて列挙しています。その中にはカモシカがあり、シカはありません。現在カモシカが山側の郊外に出没することは、GarnetiteCatさんが指摘する通りで、住民にとっては常識です。
これらをつなぎ合わせると、まずシカが20世紀前半か半ば頃に消え、その後、20世紀後半にカモシカが郊外に進出してきたのだろう、と推測できます。
次に、鹿落坂の地名がいつ成立したかが問題になります。仙台の中心部は伊達政宗が開いた1600年まで荒れ地でしたが、周りには中世にいくつか寺や城が置かれており、完全な無人地帯ではありませんでした。地名は初見となる『仙台鹿の子』が出る江戸時代前期までにできたものですが、中世からの可能性も高いです。中世の分布については不明ですが、江戸時代初期と大きく変わる理由はありませんので、やはり、鹿落坂のあたりでは鹿と猪が多く、カモシカは高山に限られていたとみるべきでしょう。
結局のところ、GarnetiteCatさんがご自身の土地勘に基づいて書き換えたことは、なんの改善にもなりませんでした。誤りは人につきもので、避けられないことですが、誤り方の違いがあります。先行した研究者の誤りを真に受けて誤るのと、読者代表を称する匿名執筆者の誤りを真に受けて誤るのは、読者にとって同じではありません。後者の場合には、そんなものを信用したこと自体が恥ずかしいと言われてしまいます。ですからWikipedia:独自研究は載せないことが方針にあるのです。--Kinori会話2017年1月17日 (火) 08:40 (UTC)[返信]